闘病記


2007年

9月  10月  11月 


10月1日(月)     ガゼン、元気 

夕方お母さんが看護士に呼ばれ、体の様子で
今月いっぱいくらいで帰宅も考えましょう、という話になった。

それを聞いたお父さんは、ガゼン、元気になった。
日中はリハビリで、ベッドサイドに足を降ろして自力で座る練習をしたんだ、と話した。

計画を立てるからノートを持ってこい。とはりきっている。
食欲はないものの、昨日まではなんだったのかと思うくらい声が出ていた。

『腕だけなら逆立ちで歩けそうだ!』 と言った。
そういえば子供の頃、お父さんとプールに行くと、お父さんはプールでよく
逆立ちをして歩いていた。
浅いプールのから毛深い足がニョキっと出ていて、
ちょっと恥ずかしかったけどおもしろかった。

そんな話から、昔話になった。

生まれた時から20年以上住んでいた田中町の家。
思春期の頃、お風呂場でムカデに足を這われて
引っ越すまでお風呂には入らない!とダダをこねた。

ボロ家で嫌だと思ったこともあったけど、
竹やぶ、畑、カブトムシ、クワガタ、桑の実、ウメバヤシ…
周りには自然がいっぱいだった。

庭は穴掘り放題、家にはシール貼り放題。
汚そうが壊そうが、何をやっても怒られない。

子供にとって、これ以上の環境はなかった。

物心つかない4歳から習い始めたピアノ。
練習が嫌になると、 『別に、習いたいなんて言ってないもん。』
と生意気なことを言った。

おかげで今、聞けば大体ドレミで音がとれる。
音楽は、生活のちょっとした場面で気持ちを豊かにしてくれた。

カズはもっと嫌々ピアノをやっていた。
今となっては絶対ピアノなんて弾けそうに見えないのに
実はピアノ習ってたって意外性がいい。
と、カズらしいな〜。笑

だから、私は引っ越してもピアノを手放さないと言い張っていた。
自分に子供ができたら、少々嫌がられても
ピアノだけは習わせたいと思っていたから。

置き場もないのに…お父さんでさえ、諦めるのが得策と
言っていたけど、親として当たり前に買ったピアノを
そんなに大事に思ってることが嬉しい、と言っていた。
今はウクレレが欲しいんだよね〜と話した。


あとから思えばこの時、お父さんにとって
家に帰れるということは、 “治る” ということだった。

足が動かないこと以外はいつもと変わらない日常に、
戻れるということだった。

10月2日(火)     ガンダム計画 

今日も日中、車椅子に乗って “快調” とのメール。
昨日から看護士さんなしで、お母さん一人で押してるそうだ。

昨日買ったウィダーインゼリー系はダメだったので、
お昼はお父さんのリクエストでおいなりさんとあんこを少し食べて、
夕食も少し食べるようになった。


寒くなってきたので車椅子用にユニクロでパーカーを買って18時過ぎに病院到着。

着くなりノートに書いた部屋の見取り図を見せられて、
どこにベットを置くかとか、どこから車椅子で出るかとか、帰る気マンマンだった。

カズが来ると、今度は車椅子用の車で話は持ち切りだ。
ただ車椅子で車に乗って出掛けよう、という話ではない。
車椅子に乗ったまま運転席に乗って、お父さんが運転する、という話だ。
車椅子が車に乗って合体する。
この計画は、“ガンダム計画”と名付けられた。

この週末は、退院に向けてカズが車椅子まで移動する介助のデビューだ、
という話になった。

DVDはもう持って帰っていい、と言った。
今思えば、もう近々帰るんだから、ということだったんだろう。



帰って車椅子の人が運転する車について、ネットで調べた。
実は昨日、先日友達に頼んだカタログが届いたけれど、
障害者本人が運転するものがなく、
たぶんお父さんは自分で運転する気マンマンだと分かっていたので、
病院には持って行かなかった。

10月3日(水)     友蔵じいさん 

朝、通勤電車の中から、 “車椅子の人が自分で運転する車”
のカタログを再度友達にお願いした。

お昼にお父さんのリクエストだったいちぢくを “うまいっ” と言って食べて、
今日も車椅子に乗った、とお母さんからメールが来た。


18時頃病院に着いた。

『あービックリしたーー!』

何かをしに病室を出たお母さんがしばらくして慌てて戻ってきた。
お父さんが入院してから明日で一ヶ月になるというのに、
お母さんは未だよく病室を間違えていた;
しかも今回は堂々とちがう部屋に入った上に、いきなりゴミ箱にゴミを突っ込んで、
顔を上げた瞬間、ようやく他人様だったことに気がついた;

『まるこのおじいさんみたいな怖い顔の人だったよー(>_<)』

いやいや; まるこのおじいさん似なら優しい顔のはずだろう。
ビックリしたのはおじいさんの方だ。
そら怖い顔にもなるわ。。

まるこのおじいちゃんという例えに、
『それ、使えるな。』 と言ってお父さんは笑った。

この話は “さとちゃん” の題材の一つに決まった。


本当は、私は月・火と本社のある香川県へ出張するはずだった。
私はもしお父さんに何かあった時、すぐに飛んでこられる場所に
いたかったため、家庭の事情で考慮してもらった。
おかげでこんなに元気なお父さんと話ができて、本当に感謝している。

10月4日(木)     柿マスク 

18時半に私が病院へ着いた時は “食欲ない” と言って夕食は何も減ってなかったのに、
なぜだか急に食べだして結構たいらげ、
お母さんが持って来たハスのきんぴらと私が買っていった
パステルプリンを “うまいっ” と言って食べた。


昨日、風邪っぴき鼻水で病院に来れなかったカズに、お父さんはメールを送っていた。

【元気でな 柿 マスク】

母 『それじゃわかんないでしょ〜』

父 『分かるに決まってんじゃん』

日中そんな会話をしていたそうだ。


カズ 『柿食べてマスクしてりゃ治るってことでしょ』

父  『ほらなー!おまえだけだよ。ったく鈍いなー』

母  『へぇー』


この頃お父さんは柿ブームで、“柿うまいぞー” と、私達にも奨めた。

今日は車椅子で病院の外まで出て、スロープの下まで行ったそうだ。
お父さんは、さらにもっと行く、と言ってきかなかったようだけど、
点滴付きな上に付き添いはお母さん一人だったので、なんとか説得したらしい。

『カズが車椅子に乗ったら車椅子でダンスとかやるだろなー』 と言ってお父さんは笑った。



とはいえ・・・

病院からの帰り、車椅子でお父さんが運転するっていうのは現実的に
けっこう厳しいかもね、と三人で話した。

いつも思い出すのはビューティフルライフ。
常盤貴子だって車運転してたもんね! 三人でよくそう言い合った。

しかしよくよく思い返してみる。

常盤貴子は自力で車椅子から運転席に移動していたかもしれない。

車椅子ごと運転席に乗る・・そんな車があるんだろうか。

お父さんのことだからあると知ってて言っているのかもしれない。

お父さんはなんでもよく知っているから。


でも、この “ガンダム計画” でこんなに元気になったんだから、
あんまり否定せず、そのつど考えていこう、とカズも言った。

そして3人で家で柿を食べた。

10月5日(金)     おしり事件 

朝、電車の中でおじさんが広げている新聞が目に入った。

癌、5年生存率。

キヨスクで新聞を買った。

だからどうってことではない。

ただ、動かなくなった足にばっかり気をとられていたけれど、
肺がんとは怖いものだということを改めて知った。


買い物をして19時前に病院へ着いた。
夕食は少しと、お母さんが買ったプリンを食べた。
ちょっと勢いよく食べすぎたのか、胃がもたれたと言って胃薬を飲んだ。


このところ気持ち悪くなることも吐くこともなく、だいぶ車椅子にも慣れてきた。

しかし昨日、車椅子に移る時、おしりから液が漏れているのをお母さんが発見した。
今日もおしり漏れがひどく、オムツになった。

大腸ガンの術後にはこういった症状はしばらくあったけど、
だんだんに落ち着いてきて、最近ではなんともなくなていた。


床ずれは皮膚科の管轄らしく、先生が来たけれど、
位置的に床ずれではない、詳しくは火曜日に…などと言って、はっきりしなかった。

お父さんは患部の写真を見て、『見るんじゃなかった』 とショックを受けていた。

患部は昨日今日でそうなったようには見えず、しかも見つけたのは
お母さんで、ちょっとこれは看護士の管理不行きでは…と、病院側とも話し、
看護士長みたいな人が出てきて、 『本当ににその通りです』 と認めたそうだ。

それで怒られたのかは知らないけれど、夕方担当の看護士が、
八つ当たりかのように何の罪もない同室のおじさんに声を荒げ、怖かった。



色々調べた結果、お父さんが車椅子で運転するのは難しいだろうという
現実とは裏腹に、お父さんは日々運転する気マンマンで、
家に帰って来たら、日中お母さんと二人の時に、
運転すると言ってきかないのでは…とお母さんは恐れていた。

お父さんは、このおしり事件と、
お母さんに “ちょっと、いきなり運転はムリじゃない?”
と言われたことでがっくりしていた。

家に帰り、お母さんと話した。
確かに現実的に運転は難しいけれど、あんまり頭っから否定して
希望をなくしてしまうのはよくないから、
まずはお母さんとカズと私と三人で一番いい方法を考えて、
何が出来て何が出来ないかちゃんと裏を取った上で決めて、
お父さんに話すことにした。

10月6日(土)     ボディーサーフィン 

昨日頼まれた方眼紙を買って18時過ぎに病院へ。

昨日の事件で、看護士が2時間おきに体位を変えに来るという話になったようだが、
朝、心なしか看護士が冷たかったとお父さんは言った。

そして、決まったそばから、2時間をきっちり守っている気配はなく、
相変わらず連絡が行き届いている感じでもなかった。

床ずれなんて日常茶飯事の看護士。
すべてに一喜一憂する家族。


カズは今日もドデカイ真っ赤なTシャツを着て 『カラーセラピーだよ』
と言って笑わせていた。
明日は日曜日だから海(サーフィン)行ってお父さんのカメラで写真撮ってくるね、
と言うカズに、お父さんはボディサーフィンって知ってるか?と話した。

何気ない会話。
お父さんは泳ぐつもりだと分かった。
歩けなくても、水に浮くことはできる。
お父さんは、なんとしてでも動こうとしている。
なんとしてでも、動く方法を考えている。


フルーツヨーグルトを買って行ったけれどプレーンのがいいな、と食べず、
今日は私がデニーズへ行ってすきっ腹にコーヒーが嫌でポタージュを飲んだ。


家に帰って車のことはやっぱり今は否定せずに
お父さんの話に乗っておこう、と三人で再度話し合った。

みんなで一緒に、そのつど壁にぶち当たろう。
壁にあたったら、お父さんと一緒にみんなでがっかりしよう。
みんなで泣こう。

そしてまた、みんなで次の方法を考えよう。




この日の夜中だったか・・・
地震が起きた。

たしか、数日前にもあった。

そのたびに思う。

みんな壊れちゃえばいいのに。

そしたらみんな公平なのに。

公平に、みんなつぶれちゃえばいいのに。

10月7日(日)     人のせいにはしない 

朝8時に病院へ行くと、点滴が左側に移動していた。
お父さんから見て右側の壁との間に引き出し付きの台があって、
私達は大体そっちに座って水を取ったりタオルを出したりしていた。

そしてよく、お母さんが点滴のチューブに引っかかってはカズに怒られていた。
見かねたお父さんが左側に移動したようだった。


お父さんが何か飲みたいと言った。

きのう飲んだ・・・

『ホワイトホットミルクみたいな名前の』

1階の自動販売機に行った。

そんな名前のものはない。

ホットのミルクセーキを買っていった。
自分も同じものを買ってみたけどおそろしく甘い。

お母さんに聞いたら、実際は 『ホワイトコーヒー』
のことを言っていたそうだ。

お父さんは、けっこう思い込みで名前をつける。

そしてそれを自信満々に使う。

ワールドポーターズ → ワールドインポートマート

ベルト → バンド

一番困るのが、右を指して左と言うこと。


今日はテーブルをベッドに渡して自分で食べる、
と言って味噌汁と副菜をほぼ完食した。
そして、 『おかあにこうやって食べるんだよ、って見せてやんなきゃ。』
と言って写真撮ってくれ、と言った。
珍しいなーと思いながらカメラがなかったのでケータイで写真を撮った。


朝食後、お父さんに頼まれた家の設計図をコピーして、
それを見ながら車椅子のリフトをここに置いて…など話した。
お母さんには家から縮尺定規を持ってきて、と言って図面を引く勢いだ。


お母さんが心配していた運転の件だが…

『疲れたら乗るわけねーじゃん』
 
買ってきたふがしを食べながら、お父さんはあっさりと言った。

そう、いつだってお父さんの方がウワテだった。


それから、18歳で家を出て問屋に入った話を聞いた。
当時この年で車の免許を持ってるのは珍しく、
重宝がられてよく運転した話。
お父さんは車の免許ほど実用的で役に立つもんはない、と
昔からよく言っていた。

進路のことも就職のことも、今までとやかく言われたことは
一度もなかったけれど、車の免許だけは取った方がいいとお父さんは言った。
『金は出してやるから絶対途中でやめるなよ、結構そういう人も多いんだ。』
と言って珍しくすすんでお金を出してくれた。

結婚してから30過ぎたお母さんに免許をとらせたのもお父さんだった。
私は遊園地のゴーカートでさえうまく運転できない子だったので、
ペーパードライバーになる気マンマンで免許を取った。

お母さんはどんなに寒い日も、雨の日も、夜遅くても、
よく車で迎えに来てくれた。
“自分があったかい家にいたら絶対断るな〜”
と思うほど寒い日でも、歩いてもたった10分もない道なのに、
むしろ寒いんだから迎えを呼べ、と言ってお母さんは来てくれた。
高校生くらいになると、それを “すごいよなー” と思うようになった。

お母さんっていうのはそういうものなんだ、と思った。
だからその時のために、私は車の免許を取った。
早く取った理由は、 “オバサンには教官が冷たいと聞いたから” だった。


商売の話をするお父さんは、いつも生き生きとしていた。
二十歳でお店を開店したお父さん。
まだ10代の自分に、代引きで冷蔵庫を売ってくれたんだ。
『うれしかったなー。』
10代の少年の、大きな大きな買い物。

ひとしきり話して、これが “さとちゃん” 前編よ、と言った。


午前中の回診で主治医が来ておしりを診た。
おととい皮膚科の先生は床ずれじゃないと言ったのに、
相変わらずちゃんと連絡がいってない様子で、
寝たきりの人に床ずれができるのは仕方がないことのように言った。

事実、仕方がない事なのかもしれないが、その言い方はまったくもって
他人事で、そんな人はいくらもいる、というような感じだ。

まだやっと60歳を過ぎた人が、 『寝たきり』 と表現されることが、
その言葉だけでもどんな想いか、医者は考えたことがあるだろうか。

酷くなると中の骨が見えることもあります。と、当たり前のように言った。
慰めのつもりなのかもしれないが、まだ浅いからね。と、
まだいい方、とでもいうように言った。


午前中、看護士さんが体を拭きに来て、
お父さんが横にいて見てたらいいよ、と言うので
家に帰って来た時のために、見学させてもらった。
昨日お母さんも見学したようだ。
家族がいると看護士さんも気を使うし、
人によっては迷惑オーラを発する人もいたけれど、話易い人だったので
ストーマのガス抜きの仕方も教えてもらった。

お父さんは始め、この看護士をしゃべり方がブリッコだと言って嫌がっていた。
しかし名前が自分のお爺ちゃんと同じということもあって、
親近感が湧いたのか、だんだん慣れてきたのか、
いつの間にか結構仲良くなっていて、またボディサーフィンの話をしていた。

お父さん嫌いなんだよ〜と言ってお母さんもよく家でこの子の真似をしていて、
一体どんな子かと思えば、普通 “ブリッコ” から連想するようなタイプとは
まったく違い、こう言っちゃ悪いけどむしろ田舎っぽい子だった。

洗面所に行った時、またこの子と会って
『私もそれと同じ形のみどり持ってます〜』 と言って
私の履いてたクロックスを指さした。
見るからにまだ1年目っぽいこの子は長野から出てきていて、
こないだ板前さんをする自分のお父さんに紺色のクロックスを
プレゼントしたそうだ。

毎日病室に集まる私達家族を見て、お父さんの事を想ったとしたら、
嬉しいことだな、と思った。
みんな、お父さんを大切にして欲しい、と思った。


2年前にうちを改装してお父さん専用のトイレとお風呂をつくった。
お父さんは、このオストメイト用トイレを病院か、誰か使う人に譲ると言っていた。

そして、お父さんの実家ではトイレを肥料にしてた、
すごい話しだろー? と言って笑った。



お昼も朝と同じくらいは食べた。
柿も食べそうあったけれど、 お父さんが “命を狙われてる”
なんて言うのでお母さんが果物ナイフを持って帰ってしまっていたので切れなかった。

私は13時頃お母さんと交代して、
家で少し休み、15時半頃カズと一緒に病院へ戻った。

今日はカズが車椅子介助デビュー。さすがに男の人の力はちがう。
しっかり持ち上げて丁寧にゆっくり降ろす。
『やっぱカズが一番いいな』 とお父さん。
4人で1階の自動販売機の前まで行ってコーヒーとレモン水を飲んだ。

お父さんはピーコックグリーンのクロックスを。
お母さんは、お父さんの誕生日に色違いで買ったレンガ色のクロックスを。
カズは自称、『こっちが本物』という穴が四角のベージュのニセクロックスを。
わたしはパンプス型のシルバーのクロックスを履いて。

夕食もそこそこ食べて、ウトウト眠そうだったので早めに帰った。

“さとちゃん前編” の続きに、おかぁにも言ったことないよ、というビックリする話があった。
代々医者の家系だったお父さんに、18歳で ”商売をやる” と覚悟を決めさせたのは、
なんと占いオバサンだった。
宗教とか占いとか、そういうたぐいに全く興味がない植木家の、誰もが驚く話だった。

それで決めたんだ、

【人のせいにはしない】

ゆっくり深々と、お父さんは言った。
この覚悟こそ、お父さんの原点だと思った。

10月8日(月)     シューマッハ 

朝8時。いつもに増してまずそうな朝食だったけれどお父さんは食べた。

数日前、お父さんが看護士さんと最近読んだ本の話をしたらしく、
“Life” が読みたい、と言っていたので、買って行った。
文庫本で字が小さかったのと、実際本を読む体力すらなかった
お父さんは、まったく読んでいなかった。

しかもそれはLifeじゃなくて “天国で君に逢えたら” の方だったのだ
けれど、内容がお父さんを傷つけないものかどうかも気になったし、
しかもおもしろかったので私が先に読んでいた。

『Lifeおもしろい?』 お父さんは聞いた。
『おもしろいよー』 ほんとにおもしろかったから、実感を込めて言った。
『さとちゃんはもっとおもしろくなりそう?』 お父さんは聞いた。
『そりゃーおもしろく書くよ!』 自信満々に答えたら、
『そうか』 って少し笑った。

お父さんの自分史 『さとちゃん』 は、私が代筆、絵が上手なカズが挿絵、
じゃあお母さんは…印税が入ったら経理だ!
なんて言ってよく盛り上がっていた。
『それじゃなんかおまえはずるいよなー』 とよく言われた。

カズに描いてもらう挿絵は、お父さんが兄妹で夕日を見ている絵だと言っていた。
カズは絵がうまいけれど、カズの描く壁画の落書きにあるような絵と、
“さとちゃん” の雰囲気は、ちょっと違う気がした。
もし本当に描く時がきたら、私はカズにイメージの注文をつけようと思っていた。

でもお父さんは言った。

『自由にやらさないとつまんねぇからな、カズは』

お父さんの育て方そのものだった。


看護士さんに体を拭いてもらい、入院前、 『腫瘍マーカーが急に上がってる』
  なんて突然言われて、しゅようまーかー?シューマーッハの仲間かと思ったよ、
なんて言って看護士さんを笑わせていた。


ほんとの話だった。
大腸ガンになって2年半以上経つけれど、そんな単語さえ我が家の誰も知らなかった。
骨もガンになるなんて、私はそれすら知らなかった。
何でいくら調べてもなんで “骨ガン” がないんだろう、と思った。
転移なし、進行ガンの一番軽いステージ。2年経過したら8割完治。
家族の誰もがそう思っていた。

以前入院していた同室には、“余命数年”や“余命去年”の人がいた。
同じ病気でそんな人たちに囲まれていたら、どんなに不安だろう…と
思ったけれど、案外お父さんは平然としていた。
たぶんお父さんの中では、大腸ガンの手術をし、肛門を失った代わりに
ガンとは永遠におさらばしていた。

体を拭いてもらって二人っきりになった時、お父さんがベッドサイドに座りたい、と言った。
腰から下が全く動かないお父さんは、上半身が不自然に曲がったまま寝ていても
曲がっていることも気にならず、自分ではよく分からないようだった。
ベッドサイドに足を降ろす、それだけでも容易なことではなかった。

右に降りるので足側の柵を外し、ベッドの頭の角度を上げる。
バランスを崩した時のため、左側に枕と布団を集合させておく。
お父さんは右の頭側の柵をしっかりにぎり、私が両足を持ってベッドサイドに降ろす。
私はお父さんの左側に座って、お父さんの背中を支える。
いくら娘とは言え、人の力任せというのはとても不安らしく、
左手で私につかまったら?と言ったけれど、自分の手で握ったベッドの柵が
お父さんの命綱だった。

車椅子に乗る時、まずこの体制をとる。
お父さんはそうしてベッドサイドに足を降ろした時、地面に足がつく
感覚がなく、それがとても怖い、と言ってた。
だから、確かめたかったのだ。
お父さんの足の裏を地面につけると、
『これでついてる?…これがわかんねんぇんだよなぁ…よし、じゃあ戻ろう』
と、残念そうに言った。

お昼は午前中に柿を食べたのでほとんど食べなかったけど、
今日は体育の日で、珍しくお弁当がでたので、
お父さんは“おかぁに見せよう、”と言ってとっておいた。

午後もお父さんはいろんな話をしてくれた。
『いつかまーに話そうと思ってたのが、そんな話よ。』と、
昨日の “さとちゃん 前編” をふり返った。

そして 『カズも結構しっかりしてきたか?』 と聞くので
『ほんとだねー。やっぱ男の子いると違うよ。あいつも大人んなったね。』
と話すと、 『そうか』 と嬉しそうに言った。

それからお母さんとの新婚時代の話になった。
おかぁとは意外と同棲が長かったんだ、と
今風だろ?と言って笑った。
あんまり付き合ったりなんてしたことなかったから
車に乗っていろんなとこ行ったりしてけっこう楽しかったよ。
と懐かしそうに話して、たしか結婚記念日は10月だったかな…と言った。

私は親の結婚記念日の話を生まれて初めて聞いた。
たまにそんな話をしている友達がいて、世間では結婚記念日に
イベントがある家庭もあるんだ、と思っていた。

お父さんとお母さんはごくごく普通に仲がよかったけど、
結婚記念日に限らず、誕生日だ何の日だ、なんて言って
この夫婦が何かしているのを見たことがなかった。
でもそれが、うちらしかった。

それにしても10月って今月じゃんか。

たしか10日だったかなー とお父さんは言った。
いや、よく覚えてないから分かんないよ。
と、もし違ってお母さんがブーブー言い出したら嫌だな、
という感じで付け加えた。

13時半頃お母さんと交代しておうと屋でお昼を食べた。
お父さんの言う通り、セルフのほうじ茶がおいしかった。
その足でお父さんに頼まれた電気を買いに行ったけど、
お父さんが絵を描いて説明してくれたようなやつは売ってなかった。

この頃お父さんのマイブームはほうじ茶と氷で、ポットが1つじゃ
足りなくなってきたので今日お母さんがもう一つ色違いを買ってきた。
ただ、なにしろ下半身が動かないお父さんは、自分一人で
コップのお茶を入れて飲むことさえ一苦労だった。
なので何かもっと使いやすいのはないかと思い、
背が低くてそのまま口をつけて飲めるやつを買って病院へ戻った。

その間今日も車椅子に乗って一階の自動販売機へ行って
ココアを2杯も飲んだそうだ。

夕食もそこそこ食べて、ウトウトしてきたので家へ帰った。
帰ってからお母さんに結婚記念日の話をしたら、
『えー6日じゃなかったかなー7日かなー』 と言った。

だとしたら過ぎてるじゃん。。

この期に及んでも、この夫婦にとって結婚記念日は
大した意味を持たないらしかった;

というわけで、私は未だ、親のちゃんとした結婚記念日を知らない。

10月9日(火)     温熱療法 

今日、抗がん剤の2回戦目を始める予定だったけれど
ちょうど火曜日でお風呂の日とぶつかってしまったので
今日はお風呂にして明日から始めることになった。

お風呂は気持ちはいいけれどかなり体力を消耗するようで、
お父さんは日中もお昼を食べずに疲れて寝ている、とお母さんからメールがきた。

それでも車椅子には乗ったそうだ。

私が焼きプリンを買って18時前に着いた時も寝ていた。
昼過ぎにご飯の代わりにお母さんが買ってきたポンパドールのパンを食べて、
夕食は少しと焼きプリンを半分食べた。

この日だっか隣にハワイ在住という、おじいさんが、
ちょっと前にベッドに偽足をベッドの横に置いているおじさんが
前のベッドに入院してきて、この部屋は満室になった。


右足をあっためたらピリピリと感覚がある、
お父さんは 『温熱療法だ』 と言って私達は代わる代わる
蒸しタオルでお父さんの足を暖めた。

夕方回診に来た主治医に、 『つながってきた(神経が)』 と言って
主治医が困っていた。

今日は朝からベッドの足側を上げろ、下げろ、とうるさかったらしい。

その前は超能力で動かす、と言って人指し指を足に向けていたそうだ。
半分冗談、半分本気だろう。

リハビリの先生にそれを話したら、そうやって意識を集中させるのはいいこと、
と、まんざらハズレじゃないらしかった。


お父さんは、よく、足を下げてくれ、と言った。
平らにしていても、足が上がっている感覚のようだ。
“あがってないよ。 平らだよ”
そう言ってもまたしばらくすると下げてくれ、と言った。


昨日買ったチビポットには氷水を入れて、冷たくてうまい、と
お父さんに好評で、帰り際にはレモン水も飲んだ。


車の話は、とりあえずまずはそれ用のレンタカーを借りてみて、
車椅子で外へ出る手段はカゴ(とうちらは呼んでいたリフト)がいいね、
と、だいたい話がまとまってきていた。

今日お母さんがケアマネの人に相談したら、カゴは別のを勧められたので、
カゴはお父さんが帰ってから家に業者に来てもらって決めよう、という話になった。

10月10日(水)     抗がん剤 二回戦 

朝6時前から “眠れない” と、お母さんに電話がかかってきていて、
さすがに今からは行けないのでなんとかごまかしていたけれど、
7時頃またかかってきたのでお母さんはいつもより早めに病院へ行った。

もともと平日の面会時間は15時からで、毎日ルール違反な上に
個室でもないのに夕方は毎日家族4人大集合の、
迷惑な一家だったかもしれない。

入院当初はだいたい朝10時に行っていて、
お父さんがご飯を食べるように頑張ってるので8時に行くようになった。

幸いに病院からは何も文句を言われなかったけれど、
一応自分達の中では “朝食があるから8時” という理由をつけていたので
さすがにこれ以上早くはちょっとね…と話していた。


18時前に病院へ行くと、お父さんの顔がとても明るかった。
そう言うと、それは “おしり事件” が解決したから、だった。

解決、と言ったって治った訳ではない。
ただ、主治医がおしりから出ている滲出液という液は、
術後でていたものと同じもの、と、はっきり認めたので、
お父さんはすっきりしたようだ。

治ってないのにそれでこんなにすっきりするなんて、ちょっとおかしい気もするけど、
今までのはっきりしない医者の態度は、
お父さんの 【人のせいにはしない】 という精神に反していたのだと思う。

主治医も皮膚科もどこか逃げ腰で、なんか罪のなすり合いのようで、
しっかりした説明がないことにお父さんは一番イライラしていた。


“末期ガン”という、完治しないとされる患者に対し、
医者がその人と “ちゃんと向き合う” ということが、どんなに大切かを実感した。

医者が自分をちゃんと診てくれている、ということが、
患者にとってどれだけ安心することか。
それはしたくても、家族にはできないことで、
医者にしか与える事ができない “安心” なのだ。
いい事も悪い事も、医者ならば逃げないでちゃんと向き合って欲しい。


お父さんは、 コーヒーゼリーを完食して、
『薬がなくなったと思ったらヘソに入ってたりして』 
と冗談を言ってみんなを笑わせた。


このところ、夕方になると疲れてきてだんだん機嫌が悪くなる。
そうするとだいたいお母さんが怒られる。
昨日も帰り際、タオルが小さいとか、色が病院のと似てて紛らわしいとか、
些細なことで機嫌が悪くなった。


『ガンダム計画』 が発足してから、私とカズは上手に話を合わせていた。
病室で、非現実的な世界で盛り上がり、
家に帰って、現実的な世界を調べていた。

とりあえず適当に話を合わしときなよ、
と私とカズが何度言ってもお母さんの意見は現実的で
いつもちょっとネガティブなのでお父さんに嫌がられていた。

そしたら今日、お父さんは言った。
『おかぁの意見はヤマ勘だけど説得力がある』
それを聞いてお母さんはホッとしていた。

今日も車椅子に乗って先生によるリハビリもした。
リハビリのアンケートのような問診のような用紙を書いたそうだ。


【本人希望欄   歩きたい。】

10月11日(木)     元気! 

今日は仕事が押して18時半過ぎ、カズもいる。

今日はお昼からご飯を三分粥に変えて完食で、
2つにしてたほうじ茶を1つにして代わりにジュース付きになった。
夜もお粥完食、みかん、柿半分、と食べまくり!
さらにコーヒーゼリーを食べてたら 『おいしそ〜』 って看護士さんにみつかっちゃった。


今日は車椅子に2回も乗って、どうせ退院したらレンタルするんだし、
今から借りちゃうか〜なんて話したてたみたいだけど、
入院中は保険が利かないから一万円/月 近くすると聞いてちょっと躊躇。
お母さんは別にいいじゃん、と言ったみたいだけど、
お父さんは金でなんとかするみたいのはキライだ、と言ってやめたそうだ。

お父さんはお金を稼ぐことは好きだったけど、使うことは好きじゃなかった。
そこあるもの、タダのものを最大限に利用して楽しむ人だった。

お父さんの部屋といえば、私がもういらないとほっぽり出した家具を
使って実に見事に整理されていた。
組み立て式の棚をジグザグに組み立てたりひっくり返したりして、
買うとしたら100円均一の小物やファイルで上手に物が並んでいた。
素敵!というきれいさではなく、見事!というお父さんのアイディアが詰まった部屋だ。

そういえば以前入院した時は、どっから仕入れたか分からないヒモや
S字フックを使ってお父さんのベッドの周りだけが
いつの間にかすっかりお父さんの部屋のようになってたっけ・・・


昨日からカズがそろそと給料がアップするかも!という話をしていたら、
今日はカズが恒例のデニーズで部屋を出ようとしているのに、
3回くらい呼び止めて “給料アップのうまい言い方” を伝授していた。

夕方、回診に来た医者にお父さんが、吐くのが一番怖いから注意していることと、
“シューマッハ” の話をしたら、医者は “はっ??” って感じだった。
まったくユーモアの分からない人だなぁ。

そして、明るく話す私たちに、
副作用がなくても効いてなければ意味ないですから、
みたいなことを言った。


その対応が気に入らず、帰ってからもカズに文句を言っていたら、
『お前がおもしろいこと言わねぇからおとうが言ってやってんのに!』だって。

たしかに!


ずっとベッドにいるお父さんは、ずっと “大の字になりたい” と言っていた。
今日、リハビリ室で車椅子の話を聞いて、念願の大の字になった。

“たいしたことなかった。”

自分の足の動かなさを、余計実感していた。

10月12日(金)     車椅子について 

12:45 お母さんよりメール
朝車椅子乗った 朝食完食 元気 機嫌よし!


今日もコーヒーゼリーを買って18時前に着いたら、お父さんは寝ていた。
今日も車椅子に2回乗って、ハードなリハビリをして温熱療法をしたら
すっかり疲れてしまったみたいだ。

今日リハビリの先生に、 『一人で車椅子まで移動できるか』 を聞いて
『ムリです』 と言われがっくりして、薬で少しもうろうとした感じもあってか
“それなら退院しても車椅子もいらない” と、また振り出しに戻るような事を言い出した。

今度お父さんが考え出したのは、 “カズ人形” だった。
“カズ人形” いわゆるカズに見立てた頼もしい人形にしがみついて
車椅子まで自力で移動する。

ほんとにお父さんはいろんなことを考える。
しかも、後から知ったけど実際にそういう介護用品は存在するそうだ。
お父さんには危険すぎるけれど。


そして 『最近みんなと同じフツーのことした思い付かねんだよなぁ』 と言って
『煙突から飛び出ようか。』 と、十分フツーじゃない事を言った。
『トランポリン置いとかなきゃ』 とお母さんが返した。

夕食はお粥全部とりんごを食べて、お疲れのようなので早めに解散した。


週末に、トヨタのウェルキャブステーションに行こう、とカズと話した。



車椅子の人が、レースやスポーツをする姿を、今まで何度かTVで見たことがある。
単純に、すごいなーと思う。
たぶん、だれもが単純に、そうおもうと思う。

でも今はちょっと違う。

車椅子でスポーツをする人は、たしかにすごい。
でも、車椅子で日常生活を送る人は、それと同じくらいすごい。

電車に乗るにも、介助がいるだろう。
バスに乗れば、乗ってる人すべての人の時間を止めて、
申し訳ない気持ちになることもあるだろう。

人に迷惑をかけたくてかける人なんていない。
人に頼って、人の手を借りて生きていきたいと思う人なんていない。

誰だって、自分の力で生きていきたい。


足が不自由でも外に出て、バスに乗って、電車に乗って、
時には誰かの手を借りる勇気を持って、生活できる人はすごい。
不便なことは沢山あるだろうけれど、そうやって、生活できることは素晴らしい。



以前、一歩5cmずつ歩くおじいさんを見たことがある。
横断歩道の信号が、赤、青、赤、青…何回変わったことだろう。
信号が赤になっても、青に変わってまた赤になっても、
おじいさんは必死に5cmずつ進んでいた。
車が次々よけて通っていった。
私を含め、バスを待つ人がみんなおじいさんを見ていた。

なんで付き添う人がいないんだろう。
そこまでして・・・

そのときはそう思った。
わたしと同じ想いでおじいさんを見ていた人もいたかもしれない。


でももし今度そのおじいさんを見ることがあったら、
私は思うだろう。

いいなー歩けて。

10月13日(土)     正月に欲しいもの 

今日も車椅子に2回乗った。
退院に向けてお母さんが貼る薬のやり方を聞いた。
それがモルヒネと聞いてお父さんはちょっとショックを受けていた。
足が重い、と言っていて足をさすった。

ちょっとボーッとした感じはあるものの、
形が珍しいので買って行った筆柿を
『うまいけどあと一歩だな〜』 と言いながら食べて、
昔、正月になると家族でそれぞれ自分が欲しいものを書いた、
と実家の話をした。

大人、子供関係なくみんな書くらしいけれど、別に買ってくれる訳じゃなく、
ただ書くだけで、妹はいつも紙のピアノを弾いてたんだ、と笑った。

明日は日曜日だから朝から来るよ、と言って帰った。

10月14日(日)     ウェルキャブステーション 

朝6時前、“今日は調子がいいから2人で早く来てくれ” とTEL。
この頃曜日の感覚がなかったのにちゃんと覚えていたんだ…。

慌ててお母さんと8時前に行ったら、
『おかぁとまーの間でベッドサイドに座ってよっこらしょって立ち上がった!』
『夢を見たんだ』 と言った。

洗濯もせずに慌てて病院へ来たお母さんは、しばらくして
おばあちゃんのお見舞いのお返しを配りに家に戻った。


お粥とこうや豆腐を食べて、ドトールのコーヒーを2杯飲んだお父さんは、
『あーあーせっかく3人で立とうと思ったのに。』 と少し寂しそうに言った。


昨日くらいから抜け毛が目立つようになった。
それほど動いていないはずのお父さんの周りには、
たくさんの髪の毛が落ちていた。

お父さんは髪を握って軽くひっぱっては、
指の間に挟まったたくさんの自分の髪に、少しショックを受けていた。

お父さんの髪が薄くなることにではなく、
“副作用” という現実感が、とても嫌だった。


お父さんのベッドには、看護士さんの作った “体位表”がかけられていた。

今日も体拭きを見学したあと、お父さんがベッドサイドに座ると言うので
また2人でやっていたら、さっき体を拭いてくれた看護士さんが通りかかって
ちょっとビックリした顔で近づいて来たので、 『あっ…すみません。。』
となぜか謝った。

ハタからみると、たぶんかなり危なっかしい光景だったと思う。
私はお父さんが “やるっ!” という顔なのでもちろん一緒にやるけれど、
普段車椅子に乗っている時も、医者は
“おいおい…あんまりムリしないほうが…” という雰囲気だった。

結局看護士さんにも手伝ってもらう流れになり、
お父さんはベッドサイドに座った。
お父さんは、私と二人なら夢で見たようによっこらしょ!と立ち上がるつもりだったのかも
しれないけど、まぁ止められずに快く手伝ってくれたのでよかった。

お父さんは骨転移のため骨がもろくなっているので、
もし車椅子に移動する時に誤っておしりをついたりしたら
車椅子はもちろん、ベッドの角度をつけて座ることもできなくなる、と
医者に言われていて、お母さんはかなりびびっていた。

まぁ当然のことだ。

というのもあって車にしても何にしてもお母さんが一番慎重意見だった。
なのでお父さんは私の顔をみると、 “ベッドサイドに座る” と言った。

またユーモアの分からない医者が回診にきたけれど、
やっぱりツレない人だった。

私のおばぁちゃんに当たるお父さんの母親は中国で生まれたらしい
と、今日の昔話は初めて聞く話だった。
お父さんが北海道生まれって事は聞いたことがあったけれど、
生まれて55日で上京したというのは初耳だった。

“さとちゃん” はどうやって始まるの?と聞いたら
『さとちゃん、おかゆさんできたで〜』 っと、
大阪弁のおばちゃん風に言った。

そうしてウトウトしながらも、起きる度に 『おかぁは?』 と聞いた。
『おかぁこねえな〜 来たらうるせぇけど』 と言いながら、
お母さんが来るのを待っていた。

11時過ぎに聞かれた時、『今バスだって』 と答えたら
やっとホッとした顔になった。


13時、お父さんは車椅子が来るのを待っている間に寝ちゃったけど、
ずっと待っていたので声をかえたら 『乗るっ!』 と言うので
1階でカフェオレを飲んでいたらカズが来たので
私とカズはウェルキャブステーションに向かった。

いつもお父さんの乗る車椅子はリクライニング式の大きいタイプで、
病棟に1つしかなく、その上お父さんは看護士が2.3人集まらないと
移動できないのでチャンスを逃すと乗れなくなってしまう。

なのでしかたないのだけれどいつ車椅子に乗れるかは
車椅子の調達具合と看護士の都合で決まる。

お父さんはその日車椅子に乗る時間が決まると、2.3分おきに
『今何時?』 と聞いた。少しでも予定がずれるとイライラした。

これはお風呂の時間、体を拭く時間にしても同じだったけど、
看護士の 『じゃあ○時くらいに。』 なんていうのは
遅れないことの方が少なく、 “じゃあすぐ持ってきます”
  なんてニッコリ笑ったかと思うと
目の前の他の患者さんのところで 『じゃあ体拭きまっしょっかー』
なんていうことはしょっちゅうだった。

とはいえ看護士さんは確かに急がしそうで、私達家族でさえも
“まぁ急ぐ旅じゃないんだしいいじゃんお父さん;” と思うのだけれど、
『待つ』 というのはとてもストレスになるようだった。

お父さんは元々人に迷惑をかけるのが大嫌いで、
自分のワガママを言う人ではなく、とても周りに気を配る人だ。
普段なら他の人から先にやってやれよーみたいに言う人だ。
それでもこんなにイライラしている。
よく患者のワガママ、とか言うけれど、よくそれで家族や医者が
困ってる話を聞くけれど、本人になってみないと分からないんだと思う。


歩けない、動けない、食べれない、痛い、吐く…
たとえ家族であっても、本人にしか分からない辛さがある。


      歩けない。  動けない。


私達が病院を出たあと、さらにココアを飲んだら吐いてしまったようだ。

ウェルゥキャブでいろんな話を聞いて試乗したりしていたら遅くなってしまい、
お父さんは時間が経つにつれて不機嫌になってきたようで、
お母さんからヘルプのメールが来たので急いで戻った。

帰って車の説明をしたけど、お父さんは半分寝ていた。

本来、絶対にのってくると思う話でもお父さんは寝ていることがある。
そんな睡眠のコントロールが利かない中でも、
バリアフリーの所なら離脱式の運転席を車椅子変わりに操縦できるよ!
と話したら 『じゃあメガネ買わなきゃ』 と言って笑った。

寝てるので夕食はパスして私達も早めに解散した。

こうして振り返ってみると元気そうに見えるお父さんだけど、
この日の私の日記の最後には
『けっこうもうろうとしている』 と書いてあった。

10月15日(月)     強い意志 

朝6時前、『なんでもいいから早くきてくれ〜』 とTEL。

お母さんが行ったらなんだか別の所にいる気がする、と言っていて
どうやら昨晩暴れたらしく、 『武勇伝だ』 と冗談めかして話したそうだ。

今までも株主総会があったりカズの友達が廊下でしゃっべってたり
してたので、『主役はだれ?』とお母さんが聞いたら『ぼく』だって。笑


午前中に車椅子、午後にレントゲン撮影があって疲れてて、
ポテトサラダを買って私が18時過ぎに着いた時も眠っていた。
そして起きて私の顔を見るなり、 『おーなんだよっ!』 と朝と勘違いして驚いた。

しばらくしてカズが来たら、また朝の気分だったようでさらに驚いて、
この日はかなり時差ぼけ気味だった。


お粥とりんごと柿を食べてから、会議だ!と、ベッドサイドに座って
車会議を始めようとしたけれど、座っただけで疲れてしまったので
やっぱりいつもの姿勢に戻ってミーティングを始め、
カタログを見ながら私達おススメの “Porte” について話した。

“Porte” は、車に乗る時は助手席部分が伸びて外に迎えに来て、
車椅子からそこに移動する。
その助手席は離脱式で、バリアフリーの所ならば
ジョイスティックで簡単に自分で操縦できる。

いわば車の席の形の電動車椅子なので、リクライニングは
しないものの、首まで支えがあるのでお父さんでも大丈夫そうだ。
試乗させてもらったが、なかなかの乗り心地だった。

お父さんの希望する “運転席” ではないけれど、
“自分で操縦できる” という所が最大の魅力だと思った。
ただ、ちょっとの段差も超えられないので、
行く先は完全なバリアフリーの所に限定されるけれど。


お父さんが言ってるこれで運転席が離脱するタイプもあって、
実際これで通勤している人がいる、とウェルキャブの人が言っていた。
福祉関係か何かの仕事なので、職場も完全バリアフリーなんだそうだ。


車を運転する、というお父さんの最大の希望ではないものの、
席が外まで伸びてくる車の写真は、カタログで見てもすごくて、
まさに 『ガンダムだな!』 と言ってお父さんは喜んでくれた。

そしてちょっと皮肉って言った。

『ダンプ買うことはあってもPorte買うとは思わなかったなー』


点滴を交換に来た看護士が、お父さんの見ていたカタログを覗いた。

ノーコメント。


回診に来た医者が言った。

あんまり金かけない方がいいよ。


ほっといてよ!!!


そんな家族会議中に相談室の人が来て、あたってたケアマネは
いっぱいだったので他を探す、と中間報告をしていった。
今日ケアマネは決まらなかったけど、明日からベッドの上ではなく
リハビリ室に行ってリハビリをすることになった。

お父さんの意思がみんなを動かした。
下半身麻痺。 座ることも困難。
  車椅子っていたって車椅子までも自分一人で移動できない。
苦労して車椅子に乗ったって行くとこといえば1階の自動販売機
しかなく、その往復だけでかなり疲れていた。

それでもお父さんは毎日車椅子に乗った。
一番初め、1階まで降りただけで気持ち悪くなって吐き、
すぐにベッドへ逆戻りだった。

車椅子もムリか… 
私達も諦めかけた。

ずっと寝ているのに急に起き上がって動いたからだ、と
心の中でみんな自分に言い聞かせた。
そして車椅子に乗る少し前からベッドを起こし、
少し体を慣らすことにした。

あんまり早くからスタンばると
それはそれで乗る前に疲れてダメだった。
気持ちは何時間も前からスタンばってるのに予定の時間に
なってもなかなか来なくてイライラした。

そしたらいつの間にか一日2回乗るようになった。

足は諦めろと言われたけれどじっとせず毎日リハビリをした。
ベッドの上でできることを見つけるのではなく、
車を運転する、と言い張った。

体は確実に衰えていっているはずなのに、
お父さんの強い意志は、動けないお父さんの行動範囲を
確実に広げていた。

日中、ボスが回診に来て、 『血液は安定してます』 と言った。
意味はよく分からないけど悪いニュースじゃ
ないだけでもホッとした。

私は初めて見たボス。
小柄な主治医と違って噂どおりゴツイ。
お父さんに手術を決心させた人。
頼むよ!! お父さん助けてよ!!


水曜日には主治医と相談室の人と一緒に退院に向けた
スケジュールを組むことになり、色々不安はあるものの、
この頃は着々と準備を進めていたなーと思う。

10月16日(火)     そーいうんじゃなくて、 

午前1時頃、 “眠れない、どーにかしてくれ、別の所にいる”
とお母さんに電話がかかってきた。

『お父さんちょっともうろうとしてるよ、』 傷つけないように
気遣いながらとお母さんが言うと、

『そーいうんじゃなくって、 』 お父さんは言った。

さすがにこの時間じゃ病院の扉も閉まってるだろう。
しばらくお母さんが説得したら、
お父さんは 『考える』 と言って電話を切った。

4時頃、 “まだか?なんかいい方法はないか?”
と再び電話が来て、
『お父さん、個室に移って私が泊まろうか。』 とお母さんが言うと、 
『それいいな』 と言って少し安心したのか、電話を切った。


7時過ぎ、『今どこ?』 と、当然もう家を出ている、という感じで
電話がきて、お母さんはやれやれ、と苦笑しながらダッシュで
洗濯物を干して家を出た。
病院へ行くと、お父さんはケロッとしていたそうだ;


私は焼きプリンを買って18時5分に病院へ着いた。

いつも会社を出たら、病院へ着く時間報告と
お父さんのリクエストを聞くためにお母さんにメールしていたけれど、
今日はお母さんが 『まーもそろそろ来るよ』 と言ってから
『まさこはまだか。』と今日はいらち気味だったらしい。

着いてすぐ、レモン水が飲みたいと言うので買いに行ったけど、
もちろんレモン水のために私を待ってた訳でなく
本人曰く、 “人恋しいだけ” らしい。
人は死期が近づくと 『寂しい』 と言う、と“Life”の飯島夏樹さんの本に
書いてあった。

今日やっとケアマネが決まった。
退院に向けて家の改装の話もでていて、改装ついでに
お父さんの専用風呂は元の収納スペースに戻そう、と話していて
お父さんも了解していたのに今日はその話には不機嫌で、
ピアノはお父さんの部屋に置くしかないか〜と自分で言っていたのに、
それは聞いてない、と言い出した。

今日は午前中からお風呂、CT検査でお昼が押して16時頃食べた
みたいだったけど、夕食はお粥とプリンを食べた。

18時半頃カズが来ると “Porte” の話になり、
『Porteで三渓園は軽い』 と言って、またお母さんをヒヤヒヤさせた。

でも昨日、お母さんがいない時、
『乗ったって1時間だ』 とお父さんは言った。

実際、見ていてもそうだった。

車椅子で1階までの往復でぐったり。
お風呂に入ったら一日ぐったり。
感覚のない足のリハビリでぐったり。
ご飯を食べてぐったり。

末期ガンの人の体力は、健康な人には想像もできないほど低下した。
普段だったら人の倍食べるお父さんは人の半分も食べれず、
いつもだったら絶対肉から食べるお父さんは味噌汁の上澄みだけを飲んだ。

今までのお父さんの好きだったものは、今では見るのもイヤなものに変わった。
何かを買って行くにしても、今までの感覚では選べなかった。

こってりした肉やケーキを見る度に、昔なら喜んで2人分食べるのになーと
やりきれない気持ちになった。


それでも口ではいつもすごい事を言ってお母さんをヒヤヒヤさせていた
お父さんだったけど、やっぱり自分の体力の衰えと限界を感じてるんだ、と思った。

体力の衰えを一番感じてるのはお父さん自身。当たり前のことだけど、
お父さんにそんな弱気なことを言われると、とても寂しい気持ちになった。


このところ、夜中一人になるとどこか知らないところにいるような錯覚があり、
夜中はカーテンが舞台(たぶん劇場とかのイメージ)に見えたり
天井のU字のカーテンレールが曲がって見えたり、幻覚症状が酷かった。

最初の幻覚だった“カリフラワー”の話を思い出し、
『そーえばそんなこと言ってたね〜』 なんてお母さんがかるい気持ちで言ったら、
『あれはまだ書いてあるはず。』 と真剣な顔で言われ、
『いっけね。』 と思ったお母さんだった。

10月17日(水)     本格的に、癌 

私が病院に着くなり、 『大変なことになった』
とお父さんは言った。

抗がん剤の効き目がなく、肺・脊髄ともに癌は大きくなっていた。
『本格的に癌らしい』 『延命治療なんだ』  と言った。

この日珍しくお母さんから一度もメールがなく、
お母さんの目が真っ赤なのはそういうわけだった。

医者の説明ではお父さんに投与する抗がん剤は2種類あって、
どれが効き目があるかは人によっても違うので、
まずどちらかを試すという話だった。

そして試した抗がん剤は効かず、薬を変えることになった。
月末に点滴と飲み薬を始め、その後退院してその間は飲み薬だけを飲む。
一週間空けて通院で二時間の点滴。その後三週間あけてこれをくり返す。
次の薬はすぐ効き目がなくても粘り強く続けてみましょう、という話だった。


抗がん剤の効果は一定期間したら分かり、
長くしたから効くというものではないみたいだし、
粘り強く、と言たって初めから二つだった選択肢の一つがダメだったのだから
そうするしかないということだ。

お粥だけ食べてミーティング体制(ベッドの頭を上げて座るに近い格好)で
話していたらカズが来て、Porteの運転席が離脱するカタログを見て、
『これスゴイなぁ』 と羨ましそうに言った。

抗がん剤のことに加え、
医者から足は諦めるように念を押され、
モルヒネを使っているし、運転はダメとはっきり言われた。

『あーぁ、せっかくがんばって食べたのにな』
お父さんはそう言って、病院にいる方が安い、みたいなことを言った。


帰りの車の中、泣きながらお母さんが言った。
『運転はダメって言われたらお父さん言ったの。』

『それじゃあしてやれることがないな』


涙が止まらなかった。
お父さんは私達に何かして欲しいんじゃなく、
何かしてあげたいんだった。
一人では車椅子に乗れなくても、車と合体すれば
タイヤがお父さんの足になる。

元々方向音痴で運転が下手なお母さんを連れて買い物にいける。
お父さんが運転にこだわった理由はそこだった。

歩けない、動けない。
それでも誰かの役に立ちたい。
人間ってそういうものなのかもしれない、と思った。

10月18日(木)     作戦変更 

朝6時前に 『くたばりそうだよぉ〜』 とお母さんに早く来いコールがきた。

朝起きて鏡を見るとひどい顔だった。
顔を洗って振り返ると、もっとひどい顔のお母さんが立っていた。
後にも先にもこんなに目が腫れた人は見た事がなかった。


病院に行くとお父さんは言った。

『おかぁはひどい顔だしなー かわいそうに。 誰のせい?』

かわいそうに。 
誰のせい?

つかう言葉はいつものお父さんそのものなのに。
なにもかもがいつもと違う。


お父さんは、本を読むのにやっぱり電気がいる、
というのでカズに買ってきてもらうように連絡した。


日中車椅子の時間をずらされてイライラし、明日からは15時、と
決めてもらったそうだ。

今日もミーティング体制で車の作戦会議をした。
昨日の運転NG宣告を受けて、作戦変更だった。

新しい作戦は、まずは立派な2nd car を(電動車椅子)を選んで、
それが乗る1st car(福祉車両)を買う、ということになり、
“ノア”が有力候補に変わった。


そしてまたお店の話しをしてくれた。
お父さんのお店の斜め前に別のスーパーがきた。

天敵現る。

『きたきたきたぞー』 

お父さんはお母さんにそう言ったんだって。

楽しんでるね。 お父さん。


蛍の光が鳴る20時ギリギリまで話し、
『じゃあそういう計画で調べといてよ。』
  とお父さんはカズに言った。


家に帰ると、私たちは必ずお父さんの話をする。
なんか、そうすることで、家にお父さんがいない寂しさを埋めていた。

そして、病院で一人寂しく、不安であろうお父さんに、
帰ってきてもお父さんのこと忘れてないよー! という気持ちを送っていた。


昨日、お父さんの前のベッドに、個室にいたおじさんがきた。
上司と名前が似ていたから覚えていたこともあるけど、
お父さんが入院してから、私はずっと個室をチェックしていた。

重病患者はナースステーションが近い部屋にいると聞いて以来、
ナースステーションからお父さんのいる病室の数を数えた。

その個室のネームプレートがなくなった日、いつもその意味を考えた。


今日、お母さんはあんまりにもひどい顔だったので、看護士さんにだいぶ心配されたようだ。
今日、私も会社に行った早々、早く帰った方がいいよ、とみんなに言われた。

俺なんて今日、
行った早々、あそこもう出来たかー? って言われたよ〜 笑

お父さんの分まで、カズが家を和ませていた。

10月19日(金)     ピンクモンスター 

夕方お母さんは洗濯物を取りに帰って、そのまま家に
いるので、買うものやポットに氷足して、などメールがきた。

18時に私が着いてすぐ夕食になった 。
お母さんからはリハビリついでに車椅子に2時間
乗って機嫌よし、ニコプリだけどね、とメールが来ていたけど、
お父さんはいつもやっているボタン1つのベッドの
上げ下げに悩むくらいボーッとしていた。

お粥だけ食べると、 『片付ける箱が欲しい』 と言った。
ナースステーションで聞いてみてよ、と言って
なんかあるだろー 『危険じゃないやつね。』 と付け加えた。
『分かった、ピロプロ☆×%*エチレンとかじゃないやつでしょ。』
と言ったら
『アッハッハッハッ ピロプロエチレンね。』と声を出して笑った。
こうして笑うお父さんを久しぶりに見た気がした。


ナースステーションに行ったけれど、そんな用件は
取り付く島もないと思ったので聞いたふりして
『ないってよー』 と言って戻った。
お父さんは絶対あるだろーって顔でちょうどそこにいた看護士さんに
自ら聞いたけれど空き箱はないですね〜という案の定な回答。

どうしても今すぐ欲しいみたいだったので近くのコンビニにもらいに行った。
小雨が降っていた。

お父さんのお気に召す箱もGETできて片付け上手のカズが
来たのできれいになった。


看護士さんが開けた食後の薬が落っこちて行方不明になってしまい、
結局お父さんの袖の中から見つかった。
薬を飲んだお父さんは
『なかなかおいしいよ、脇の下の味がする』
と言って看護士さんを笑わせていた。

そして恒例のミーティング。
介護用品に “つるべえ” とかいうベッドから車椅子やお風呂に移動する、
座るハンモックみたいなものを見つけ、
『これで2階から降りられそう』 とか、
『帰って歩く練習をする』 とか、
お母さんが聞いたらまた慌てそうなことを言った。

この“つるべえ” の話しも、お父さんはパンフレットを見る前から、
そんなアイディアを口にしていた。
そしたらほんとに、そんな道具があった。
ほんとに毎度毎度、お父さんの発想には驚かされる。


そして 『運転はできないんだっけ?』 と、忘れてしまったのか
わざとなのか分からない感じで、
『ダミーに運転させる』 と、ばれなければいんだろ、という感じで話した。


そしてちょっと現実に戻り電動車椅子の話になり
、 『これならおかぁの荷物も持ってやれるよ』 と言った。

お父さんはさらっと言ったけれど、私は涙をこらえるのに必死だった。


家に帰ってお母さんの作ったビビンバを食べて22時頃、
『眠剤なしで寝れた!』 と子供のように興奮気味に電話がきた。
どうやら朝の10時と勘違いしたようだ。

このところ眠れないようで、23時半頃またかかってきて、
『カズとまーにおんぶで帰ろうか!』 と言うので
『もうすぐ帰れるんだから。』 とお母さんがなんとかなだめたら
『寝れないこともないから寝る』 と言って電話を切った。

帰ってお母さんと今日のお父さんについて話していると 、
昨日から回ってると言っていた天井のカーテンレールの2つのネジが、
今日はあれがあれを追い越すんだ、と言ったり、
夜中に明らかに事件が起きている音がするのに
朝聞いてもどの看護士も知らん顔。会議してました、
とか言えばいいのになんで隠すんだ!と怒っていたそうだ。

この日からお父さんはピンク色のエプロンをした看護士たちを
“ピンクモンスター”と呼ぶようになった。

10月20日(土)     どの程度見た? 

18時に着いた時には先にカズが着いていて、お母さんは
買い物があるので私と入れ替わりに帰った。

杏仁豆腐を買っていったけど今日はご飯もまったく食べなかった。

けっきょく昨日眠剤なしで寝れたみたいで、
“Life” はお父さんのためにハードブックを買い直してたけれど、
『つまらないからよく寝れる』 と言っていた。

でもカズが慌てて買ってきた電機スタンドは、はお父さんに好評だった。
行った店に高いのしかなく、高いのはお父さんが怒るし、
早くしないとそれもイライラだし…で、あの時はどうなることかと思ったけど。


ピンクモンスターの話をカズに教えてあげたら、お父さんがカズに
『カズはどの程度見た?』 と、幽霊の話でもするように聞いて、
急なことにカズがちょっと困っていた。
たぶん、夜中起きている “事件” のことなんだろう。。

一階はフローリングにして床ダンで再度決定。
後から後悔したくないからネットで色々調べて持って来て、と頼まれた。

10月21日(日)     歩くっきゃないですね 

昨日、明日は日曜日だって言った事をちゃんと覚えていたみたいで、
朝珍しく私のケータイが鳴った。
『今どこ?』 当然家は出てるだろ、という雰囲気。
『まだおうちだよ〜』 と言ったら
『おーちかよ〜』 って。
例によって慌てて病院へ。
着いたらさっそくコーヒーtime


昨日3人でやったミーティングでは、
退院したらお父さんの部屋になる今おばあちゃんの和室は
車椅子で土が落ちたりするのでフローリングにして暖房は空気が悪いから
床ダンにすることに決まった。

お母さんもその案でOKだよ、と話すと、
『おかぁ喜んでたろ〜』 と、ちょっと “なんで?” と思うことを言った。

私とお母さんはどちらかというと別に泥が落ちようとビニールでも敷いて
畳のままでもいんじゃん?って感じだったけれど、
おとうの気持ち分かる、畳で車椅子なんて土足で家に上がる気分で
ヤダよ、とカズが言うし、どっちみち暖房は身体に良くないので
フローリングで床ダン。で話はまとまった。

それにしても、お母さんが隣で寝るというのがどうも不服らしかった。
一回でお父さんを一人にするわけにいかないので、お母さんがどこで寝るか、
というのも改装にあたってポイントになっていた。

お父さんは、この歳になったら一人で寝たい、と言っていた。
もともと和室で並んで寝てたのに。。;
でもおかぁが隣で寝たいなら断るのもかわいそうだしな。
ったくしょーがねーなー、と言っていた。

お父さんが心配だから隣で寝るというお母さん。
断るのもかわいそうがから隣で寝かせてやるというお父さん。

仲良く二人で決めてくれ。笑


そして 『部屋らしい部屋になっただろ』 と、今の病室のことを言った。
お父さん曰く自分の後ろ(頭側)は以前壁じゃなくカーテンだった、と言う。
家の改装のことが頭にあって混同しているのだろうか。。

どうしてかウタの話になった。
ウタは小学生の頃からの私の友達で、
たぶん唯一うちの家族全員がよく知っている子だった。
ウタも今、家族のことで色々と問題を抱えていて、お父さんが入院して
すぐにそんな話をしたこともあった。

『おとうが今商売やってたらウタコをつかってやるのにな。
あいつはけっこうしかっりしてる。』
と、この期に及んで私の友達の心配をしていた。


お父さんは、退院する時にチューブと虫ピンと鉛筆のサックと画用紙を
用意しておいて、と言った。
それは細いチューブの先に小さい穴の空いた鉛筆のサックをつけて、
チューブを吹くと虫ピンが飛び出して、画用紙に書いた的に当たる、
という小学生のお父さんが考え出した遊びだった。

これがみんなにうけてクラスで流行ったけど、危ないということで
先生に注意された。でもその頃にはお父さんはやめていたので
知らんぷりして怒られる友達を見てた、という昔っから要領がいい
お父さんの話だった。

退院する日にみんなでやろう、と言った。

お父さんは退院後に買うベッドのカタログを見ながら、
『これは孫が手を挟むから危ない』 とお母さんに言ったそうだ。

たぶんそれは、立つことも歩くこともできず、その上車の運転も絶たれた
お父さんが考えた “孫にしてやれる遊び” だったような気がする。

手術後、仕事を辞めてお父さんが毎日いろんなところを散歩をしてたのも、
孫のためじゃないかと私はひそかに思っていた。

プールで逆立ちはできないけど、公園だったらまかせとけ!
孫ができたら、お父さんは何をしてくれるだろう。
いろんな公園に連れてってくれる。
お金をかけないでやれる楽しい遊びを教えてくれる。

思いつくことはたくさんあるけれど、
きっと私では思いつかないようなアイディアの方が、ずっとずっと多いんだろうね。


朝、足を思いっきりこすって、と私に頼んだお父さんは、
回診で 『歩くっきゃないですね。』 と言って主治医を絶句させた。

『歩かないから歩けない』 そう思っていた。

きっとそう思いたかった。

『大の字になりたい』

そう言っていたお父さんは、念願叶ってリハビリ室で “大の字”になった。

しかし自分の身体の重さと不自由さを実感した。

ちっとも嬉しそうじゃなかった… お母さんが言っていた。




朝一コーヒーを飲んだお父さんはお昼の後、
歯磨き中に吐いてしまい疲れたのか、眠そうだったので
病院を出て、お母さんと交代した。

お父さんが車椅子に乗る頃、カズと一緒に病院へ戻り、
せっかく4人揃っているのでMRI室の方まで行ってみた。
お父さんはお土産に買ってったスタバのコーヒー+ココアも飲んで、
ベッドへ戻ったら疲れていた。

今日は電動車椅子ではなくバイク型のタイプにすると、昨日とモードが
変わっていて、車はしゅんちゃんに言って日産で買うか。 と言っていた。
しゅんちゃんとは日産に勤めていたいとこだそうで、
もう辞めているから売り上げにはならないんじゃ?と話てたら
『しゅんちゃんの株が上がるかも』 と笑った。

回診の時、隣のベッドのおじいさんに
『歩く練習しないと飛行機にも乗れませんよー』 という声を聞いて
『飛行機乗りてぇな』 とお父さんは言った。
ハワイ在住のこの80近そうなおじいさんは、よく英字新聞を読んでいた。
まんまだけど、お母さんはこの人を “ハワイ” と呼んでいた。


数日前にお父さんの前のベッドにきたおじいさんに、
『○○さん、もともと歩けたの?』 と看護士が聞くのを聞いて、
『なんでぼくにきいてくんないのかなー』 とお父さんは言った。

私にはお父さんの言う意味がすぐに分かった。
もちろん元々歩けたわけだけど、お父さんが言いたいのは
元気な時歩けたという事じゃない。入院前、お父さんはだんだん
痛くなる足を使って歩いていた。

ぎっくり腰と言われ、それにしても痛いのでもう一度病院に行くにも
タクシーを使わず、バス停までも歩けないのに
チャリは乗れる、と言って自転車で病院へ行った。
自転車で前かがみに体重をのせると平気、と言っていたけれど、
あの歩く姿を見たら、この状態で自転車に乗ったなんて
誰が見ても信じられないくらいの状況だったのに。


一歩一歩、腰を曲げながら壁やテーブルをつたいやっとの思いで
リビングまでたどり着き、座っていても痛そうで横になり、
横になっても痛いと言っていた。

夜は0時過ぎて私が寝ようとして2階へ上がろうとする時も
まだソファにいて、テレビを見てるというよりは明らかに動き出せずにいる感じだった。

何度か手を貸そうと思ったけれど、娘に手を借りるほどか、と
なりそうだったのでそうも言い出せなかった。

そしてたぶん寝静まったころ、階段の手すりに全体重をかけながら
自力で2階へ上っていた。
けっきょく私が手を貸すことはなかった。


『ぎっくり腰』 だと思っていた。
それが癌だったなんて。
こんなことならなんでもっと早く手を貸さなかったんだろう、と何度も思った。
『自分を責めても誰のためにもならないよ』 とお母さんには言うものの、
お母さんと想いは同じだった。

『ぎっくり腰』 が突然 『癌』 に変わった。
怒りがおさまらずお母さんが医者の文句を言ったら、
『それはぼくが元気すぎたからだ』 とお父さんは言ったそうだ。

確かに、あの状況で自転車で来院する末期癌患者なんて
そういないのかもしれない。
ぎっくり腰と信じて疑わなかった私達を、
もっと疑って調べればよかった、と後悔する私達を、
お父さんの医者を責めない言葉が少し救われた
気持ちにさせた。


お父さんが言いたいのは、
痛かったけど、入院するまではその足をひきずって自力で 『歩いていた』
癌だか何だか知らないけど、 『歩けていた』 という意味だった。


いつだったか、入院してまもなく、
『あるければねぇ、 』 となにげなく言った看護士に、
『そうなんだよ!』 と、嬉しいそうにお父さんは言った。
やっと分かってくれる人がいた! というように。

こんなところで寝ているから歩けなくなった。
つかっていれば動く、動かせば動く。

強い意志。 残酷な現実。

10月22日(月)     ナースコール 

今朝もすっかり恒例となった早く来いコールがあり、
今日もお母さんは苦笑いしながら病院へ行った。

私が夕食のちょっと前に病院へ着いたら、一人の時もコーヒーが
飲めるようにスティックのモンカフェのリクエストがあったので買い行き、
戻ったらカズが来ていた。


今朝、何度押してもナースコールが鳴らなかった、とお父さんは怒っている。
ナースコールと言えば、お父さんが入院するまでは
鳴らすと “血相を変えた看護士が飛んでくるもの” だと思っていた。

でもまったく違った。

いわば家についてるインターホンみたいなもので、
なかなか応答しないこともあれば呼んでも看護士がすぐ来ない
こともあり、応答しないので何回も押すと “1回でいいです” と言われた。


後に、命に関わるナースコールが鳴る時はナースステーションの
近くの病室からで、その時はさすがの看護士も急いで来るという
事を知ることになったけれど。

それにしても、病院でナースコールが鳴らないなんてあって
いいものなんだろうか?

実は最近もうろう気味のお父さんの被害妄想かと思ったけど、
帰ってお母さんに聞いたらどうやら事実だったようだ。

『ナースコールが壊れるなんてありえないね!』 と私が言ったら
怒ってたはずのお父さんは 『でも意外と壊れるんだよなぁ』 と言った。

そりゃあ、ただの呼び鈴の家のインターホンであれ、
命を預かる病院のナースコールであれ、物は壊れるときは壊れる、
という感じのお父さんらしい言い方だった。

10月23日(火)     時計 

夕方、お母さんから “頭ぼやーです” というメールが来ていて、
お父さんは今日は “ここは中国” と言ったり、風呂オバサンの大サービスで
お風呂に倍浸かったのがアダになってかなり疲れてしまい、
リハビリもお休みしたそうだった。


今日夕方からの会議で遅くなると思ったけれど、18時半前には病院へ着いた。
夕食は済んでいて、ノートにしゅんちゃんの似顔絵が描いてあった。
今おじさんであろう “しゅんちゃん” の顔は子供で、少し笑って見えた。

重そうだから外したら?とかわるがわるみんなが言っても
絶対外さなかった電波時計だったけど、
この頃さらに時間感覚がなくなってきたお父さんは10時が朝なのか夜なのか
分からなくなっていて、デジタルで“22:00”とでるやつが欲しいと言った。

慌ててカズと車で買いに行ったけれど、この時間制限と値段制限の中、
この条件の時計を見つけるのは難しかった。

デジタルで安い時計はたいてい22時も10:00で、ベルトがゴム製だった。
条件を満たしてもホームセンターのくせに2.3万はして、お父さんに怒られること
間違いなしだった。

お父さんからカズにくる電話。
お母さんから私にくるヘルプメール。

一日待ってくれたら…と思ったけど、
お父さんは今日ないと今晩が乗り切れない様子だった。

しかたなく取り急ぎ、22時も10:00だけど字が大きいデジタルで¥999
の時計をドンキで買って、面会時間ギリギリ20時に滑り込みセーフだった。

10月24日(水)     車椅子×3 

めずらしく今日は早く来いコールがないと思ったら、
病院へ向かうバスの中でかかってきたそうだった。

今日は午前中2回、午後1回、計3回も車椅子に乗って車椅子のまま
ご飯を食べ、 『なかなかいいよ』 と満足そうだったと聞いた。


私は秋葉原のヨドバシで条件バッチリの時計をGETして病院へ向かい、
1階でカズと会った。
今日はけっこうはっきりした感じで元気そうだった。

今日、抗がん剤の薬が効果がなかった時から本格的に動いていた
がんセンターのセカンドオピニオンが来月7日に決まり、
お父さんも “来月は戦いだ” と言っていた。

車はすっかり日産で買うことに決まっていて、
車椅子のリフトは水がでるやつ、と言っていた。

というのも、この “カゴ” についても色々検索をして、
見やすそうな写真をプリントしては持っていっていたけれど、
その1つを見てお父さんが
『これいいな、水がでんだよ、これならおかぁが花に水やれるよ。』
と言って気に入っていた。

言われてみるとリフトの壁面にホースが巻いてある、ようにも見えた。
さすが見るとこ違うなーと思ったけれど、よくよくしっかり見ると、
たぶんそれはホースではないような気がした。
けれどとりあえずそういうことにしていた。

カズがデニーズに行ってから、
『来月わたし誕生日だから♪』 とよろしく、という顔で言ったら
『何が欲しいの?』 と聞かれたので
『ウクレレ!』 と言ったら
『いーねー』 とお父さんは言って、
『カズはいつだっけ?』 と聞くので、
『カズとおかぁは4月だよ。』 と言った。

そして歯磨き後、おいしそうにコーヒーを飲んだ。

10月25日(木)     癌だってよ 

お見舞いのお返しを買って18時半前に病院に着いた。
今日は16時からケアマネを含めたミーティングだったので
リハビリをやめたのに例によって時間通り始まらずに
イライラしていた。

一回目の抗ガン剤が効果がなかったので次は違う薬を試す、という話に、
『癌だってよ』 と、前にも聞いたはずなのに初めて聞いたように言った。

あの時お父さんが言った、『本格的に癌』 という意味を考える。
抗がん剤が始まった時、お父さんの中ではこれをやれば治る、
という想いだったに違いない。

薬が効いていなかったと言われたあの日、次の抗がん剤の
説明を私にしているお母さんを見て、
『よく覚えてるな』 とお父さんは言った。

お父さんは嫌なこと、怖いことを、本能的に頭から排除していた。


余命宣告以外にお父さんに隠していることはなかった。
大腸ガンと言われたその日から、肺転移のことも骨転移のことも
脊髄腫瘍のことも下半身麻痺がそのせいなことも
その腫瘍は手術ができないことも車の運転がNGなことも
全てお父さんには伝えていた。

でもお父さんは抗がん剤で病気は治る、と信じていた。
足は半分諦めつつも、なんかすればどうにかなる、と思っていることが
私達にはよく分かった。


その薬の効果がなかった、という事実はお父さんにとても
ショックを与えた。

『効いてなくても、効いてるとかいえよな。』
どこまで本当のことを話すのがお父さんのためなのか、日々迷う。

“さとちゃん” を進めなきゃな、早く家に帰りたい、と言って
自分がフローリングに改装すると言っていたのに
『そんなのはどうでもいいから』 と言って少しもめた。

今日ケアマネとのミーティングの中で、
『状況によっては話が変わってくる。100万円一気に使うとか』
みたいな事を言ったそうだ。

残された命の長さによっては…という意味だろう。
たぶん明日死にます、と言われてもお父さんは一気に100万円
を使わないだろうけど、お父さんらしい例えだった。

抗ガン剤をやる前に、医者からはやっても変わらないこともあるし、
大きくならなければいい方だと言われていた。
お父さんもそれを聞いているはずだった。

『やりますか?』 と聞かれたくらいで、完治はないので副作用で
苦しむくらいならやらないという選択肢もある、という感じだった。

例えリスクがあっても、効果がある可能性があるならば、
“何もしない” という選択肢は私達にはなかった。
何もしないでただ “死” を待つというのはお父さんの生き方らしくない
と、みんな思っていた。

家に帰って “今お父さんが一番したいことは何か” を三人で話し合った。

10月26日(金)     四角い目 

お父さんは、 “さとちゃん” を書くにあたり、
過去のアルバムや資料が欲しいと言っていた。

それは実家である茅ヶ崎に住む、お父さんの妹のところにあった。

今日、お母さんが代筆して、絶縁の妹に手紙を書いたそうだ。

『よく書けてるけど、今は出さない』

手紙を読んで、お父さんはそう言ったそうだ。



さらに寒くなってきたのでユニクロで新しいパーカーを買ったあとに
ルームソックスを探していたら遅くなってしまい、
『はぁーやっとついたぁ〜』 と言って病室にいくと、
『すぐここが分かんなかっただろ?』 と、“やっぱり” という
顔でお父さんが言った。

突然のことに私は “???” になった。
どうやら今日も混乱気味で、カズが来たら開口一番
『ここがすぐ分かったか?』 と聞いた。

今日朝からここは中国だとか言って、羽田から来たのか?
とか、パスポートは持ってきたか?とか、お母さんに聞いたらしい。
来週から新しい薬を始めます、と看護士が来たけど
『聞いてねぇ』 と怒っていた。

昨日のショックが大きく、日中も不安そうなので
お母さんも今日は家に戻らずずっと付き添っていたようだ。

混乱している自分にもイライラし、
『なんだかよく分かんねぇ』 と、医者や病院に対して不信でいっぱいだった。

気に入っていたはずの氷水用の小さいポットも 
“使いにくい” と言いだして、不機嫌に寝た。


今日、お母さんは普通ならまず間違えないバスに間違えて乗ったみたいで、
お母さんもかなりきていた。

10月27日(土)     イライラのピーク 

朝水分をいっぱい吐いて、お腹が痛いのでレントゲンをとったら
腸が少しつまっているので便秘の点滴がきて水以外ドクターストップになった。
夕方少し落ちつたので車椅子に乗る!
と言い出したけど今日は安静に、と言われ、
コーヒーもNGでなんの気晴らしもできなくなり、お母さんからは
“機嫌超悪” というメールが来た。

こりゃ大変だ。。。と思って何か気晴らしになるものはないか…と
思い、本屋に積んであった 『ホームレス中学生』と横浜の雑誌を買った。


病院へ着くと看護士の一人が
『イライラするのも分かるけどみんなこうして毎日来てくれてるし…』
と、お父さんをなだめていた。

日中、お父さんはお母さんと2人きりの時にゲボバチや枕をブン投げたそうだ。
午前中に前の人が退院して、4人部屋はお父さん一人の貸切状態だったと
いうこともあっただろう。
お父さんは他人に迷惑をかけるのは嫌いだったから。

投げてもいい状況を見てのこととはいえ、もちろん今までにそんなことは一度もなく、
家でお母さんや私達に手をあげるようなことはもちろんなく、
お母さんめがけてじゃなかったとはいえ、
お父さんが物を投げたりするなんて考えられない話だった。


医者がちゃんと説明に来ない、とお父さんは怒った。
『先生はちゃんと来てくれたし、きてレントゲンとって点滴を出してってくれたじゃない。』
お母さんが正論を言うと、ただただ不機嫌な顔をして黙っていた。

誰にもどうすることもできなくなって、
『みんなお父さんのこと想ってるよ。』 お母さんが半分泣きながら言ったら
さすがに少し表情を緩め、しかたない、という感じで
『イライラのピークだ』 
と、もう寝るから早く帰れ、と言った。


カズは 『とにかく早く床ダンに改装して早く帰ろう!』
と、お父さんとしっかり握手をして、お父さんは眠った。


お母さんと二人の時、とにかく早く帰りたい!と言って
お母さんでは拉致が明かないと思ったお父さんは叫んだそうだ。


『かーーずーーー!!』 

10月28日(日)     治りたい 

起きたら7時半だったので先にお母さんに行ってもらい、
洗濯干して9時頃病院へ。

足がだるく、機嫌よくない。

しばらく3人で先生を待っていたけれどなかな回診に来ないので
10時頃お母さんが家に戻った。
お父さんは昨日から医者が来ないことと、
それに対してお母さんが文句を言わないことに対して不満そうだった。


医者と契約するのか、とかちょっとよく分からないことを言って、
たぶんセカンドオピニオンのことが頭にあるんだろうと思った。


カズも来て、お父さんはカズにしゅんちゃんの話をしていると
ようやく回診が来た。 私は初めて見る医者だった。

抗ガン剤の調合や選定をした医者だった。
“頼むよ!” と思って聞いていた。

胃腸の具合が悪いから胃薬を追加する、と言い、
『お腹は治るから心配ない』 と最後に安心できることを言ってくれたので少しはホッとした。

コーヒーも飲めないのでイライラ気味、と言ったら水分はOKがでたのでさっそく飲んだ。

続いてレモン水も!次はICE BOX!と立て続けにいったら
しばらくしてお腹が痛くなったみたいだったけれど
追加された胃薬を飲んだらおさまったみたいだった。

今振り返ると、いきなりそんなに急に飲ませたら…と思うけど、
たぶんその時はお父さんの機嫌をとるのに必死だった。



風呂おばちゃんに 『いっつも来ていていい娘さんと息子さんね』
と言われたら 『うちの宝だ』 とお父さんは答えていた。

皮膚科の先生も来て特に問題なし。
ただ横向くと腸がよじれる感じがすると言っていた。
足は重く、腰が痛くて、 『ちくしょー』 が多かった。


回診でさらに量を増やすと言ったモルヒネの量が7.5gに増えた。
これで入院した時の3倍の量になった。


昨日からラジオの影響か、
次は自分が登板する、(昨日レッドソックスの松坂が活躍してた) とか、
馬がなんとか…(今日は競馬の中継) とか、
ラジオをつけっぱなしでウトウトして起きるとラジオの世界に入っていた。

19時頃、今日はお母さんがデニーズへ行ったら、その後から
お父さんは “今日帰る!” と言い出した。

『カズもおねぇもおかぁもおとうと一緒に帰りたいよ。
帰りたいけどあとちょっと、あとちょっと待って。』
カズは一生懸命お父さんを説得した。

こういう時、息子の存在は偉大だと思う。
男同士という、言葉では表せない空気がそこにはあった。

『あと一週間だよ。』 カズが言ったら、
『なんだそうか、今日帰るのかと思った。』 と、急に納得したので
待ちくたびれたお母さんと一緒に家に帰った。



お昼頃、少しウトウトしながらお父さんは言った。

『なんでこうなったか分からない』


『治りたい。』

10月29日(月)     忘れられない日 

この日、日記に何をどう書いていいか分からなかったのを、
今でもよく覚えている。

書かなくとも一生忘れることはないので、
書くのをやめようと思ったことも。

日記の始まりにはこう書いてある。

【言葉に、文章に表せない日】




お昼ごはんを買いにクイックパスタ屋さんに向かって
歩いていたらケータイが鳴った。
めずらしくお父さんからだった。
こんな時間になんだろう?と思って出ると、とお父さんは言った。


『おかぁが倒れたらしい』


頭が真っ白になった。
この世に神様はいないと思った。

しばらく動けなくなった。


お母さんに電話してみる、ということさえすぐに思いつかないほど
パニックになっていた。

とはいえお父さんはこの頃薬の影響でかなりもうろうとしていたので、
何かの勘違いという可能性もある、とは思った。

とりあえずお母さんに電話すると、圏外アナウンスが流れた。
お父さんが入院してからお母さんのケータイが圏外なのは初めてだった。


ほんとなの・・? 息が苦しくなってきた。


自宅にかけてみたかどうかは覚えていない。
続いてルンちゃんに電話をしたけどでなかった。


パニックのままカズに電話した。
『分かった。じゃあ今から病院行ってみるから。また連絡するよ。』
やっぱりカズは冷静だった。

どうしていいか分からず、片方触覚を取られたアリみたいに
歩いてた気がする。

またお父さんから電話がきた。
『どうだった?』

少し冷静になって、誰に聞いたのかを聞いたらお母さん本人から電話がきたという。
で、どこにいるって?と聞いたら、藤沢かどっか…よく分からないと言う。

本人から電話・・・ということは意識はあるのか。
もしかしたらどっかでずっこけて病院に運ばれて、
心配しないようにお父さんに電話したらそれをお父さんが
勘違いしたのか…。

それならそうであって欲しい。

それでもいてもたってもいられないので荷物を取ってすぐに病院へ向かった。


電車の中で病院に着いたカズからメールがきた。
ルンちゃんと大工のおじさんに聞いてみて、という内容だった。
そしてお父さんのケータイには着信履歴がないという。


お母さんが倒れたと聞いた時、すぐに思い付いた人がいた。
大工のおじさん(うちを建ててくれたおばぁちゃんの弟)の会社で働く玉ちゃん。
家の改装にあたって、午前中に玉ちゃんと話したとお母さんからメールが来ていた。
ただ、このところお父さんの幻想が激しいのも事実なので躊躇していた。


しかしそうも言っていられないので電車を降りて玉ちゃんに電話した。
まさかとは思ったけど玉ちゃんがお母さんと一緒にいるわけもなく、
かなりパニック状態だった私に119で救急車の履歴が分かることなどを教えてくれた。



病院に着くと、ナースステーションでお母さんが看護士さんと
話していた。ちょっと前にカズから “大丈夫 ”とメールが来て
分かっていたものの思わずその場にへたり込んだ。
お母さんは “ちょっとなによー” という感じでケロッとしていた。


病室に着くと、ちょっと苦笑いのカズが座っていた。

『なんだか分からねえ』 と、まるでお母さんが人騒がせ、
みたいな口調でお父さんは言って、

『まーにも迷惑かけちゃったし。』 と、自分でも混乱している
のは分かっているようで、自分で自分が嫌、というため息をついた。

お父さんは午前中に続き、カズがいたつかの間を使ってカズの介助で
また車椅子に乗ったそうだ。


一件落着でカズが仕事に戻った後も、今日のことがお父さんは
なんか納得いかない様子だった。


そして、今日回診で主治医にちゃんとヒゲを剃って顔も洗って
身だしなみを整えた方がいいと言われた、と言って怒っていた。
そんなこと、オレは赤ん坊じゃねぇんだ、という感じで。

確かにお父さんのヒゲは伸びてきていて、けっこう見る人みんなが気にしていた。


どうしてそういう話になったか分からないけど、讃岐弁で偉そうなことを
“りこげ” って言うんだよ、とお父さんに話したら、
ヒゲを “りこげに剃る” ことに決まった。

体を拭いたあと、唯一の男性看護士さんに “りこげ” にヒゲを剃ってもらい、
アゴのところだけ残した “りこげヒゲ” が完成した。

お父さんはとても満足そうで、手でヒゲを触りながらめずらしく写真を
取ってくれ、というのでケータイで縦・横と写真を撮った。


その後ボスと主治医が回診に来て、イライラを抑える薬をだすと言った。

こっそり主治医に聞いたけれど、ヒゲを剃れといったのは主治医じゃないようだ。


様子で病室を抜けた私は会社と玉ちゃんにお騒がせしましたメールを
送って16時半頃、家に帰った。




この “お母さん倒れた事件” は私にとって一生忘れない事件となったが、
言葉にならないのはこれからだった。





家に帰って当然今日の事件について3人で話した。

お父さんは最近以前に増してイライラしていた。
『よくわからねぇ』 が多く、
医者や病院に対してはもちろん、このところ私達家族に対しても
“四角い目” をして不信感を露わにした。

八つ当たりすることも多くなり、その標的はお母さんに集中した。
それを見ている私達も心苦しかった。


家族がバラバラになろうとしていた。


唯一の宝であるはずの私達が、
家族だけいればいい、と言っていたお父さんが、


不安だった。
お父さんの最期の想いが…
唯一の救いであるはずの家族さえ疑い、不信に想うまま、
お父さんが…


それではあまりにも寂しすぎる。
お父さんにとっても。
私たちにとっても。


みんな同じことを想っていたけれど、誰もどうすることもできなかった。


カズは、少し前から言おうと思ってた、と切り出した。



お父さんは真実を知りたがっている。
私たちにはお父さんに一つだけ隠していることがある。
 とても重要なこと。

お父さんの “四角い目” の原因。


『どう思う? 全体的に。』
今日、お父さんはカズにそう言ったそうだ。

隠していること。“隠している” という事実がお父さんの
不信感につながっていることは確かだった。


余命8ヶ月。


…だからってそんなこと、言えるだろうか。
あなたは8ヶ月したら死にます。
そんな宣告をされて生きていける人がいるだろうか。

それを知ったお父さんが、生きる希望を見出せるだろうか。


歩けない。動けない。


最後に旅行…。 それどころか起き上がることもできないのに。
何を希望に8ヶ月暮らせというのか。
8ヶ月寝ながらただ死を待つなんて、一体誰が耐えられるだろう。


それでもカズは、お父さんに話すべき。と言った。
和室の改装は中止する。
リビングにドーンとベッドを置けばいい。
そして一日も早くお父さんを家に帰し、真実を話す。オレが言う。
でもそれからは、絶対にお父さんに一人の夜は過ごさせない。
この狭いリビングの真ん中はお父さんで、
みんなでそのベッドを囲めばいい。

カズは泣くのを必死でこらえながら訴えた。


そうかもしれない、と思った。
そのくらい、お父さんに不信感を抱かれるこの状況は辛くて不安だった。


お父さんが家族を信じられなくなったまま…

それだけは避けたかった。
もし本当にその時が来たならば、
せめて家族がいてよかった。
そう思っていて欲しい。

全てを話し、お父さんが泣く時は、みんなで泣いたらいい。
泣くだけ泣いたら、
『ガンが消えたって人もいるんだもんな!』  とか言って
切り替えてくれるかもしれない。
そう信じたい。

夜おそくまで3人で話した。
泣きながら話し、カズの言う通りにしよう、と決めた。
カズが寝た後、『さっきの話だけど…』 とお母さんは
洗面所にいた私にお風呂のドア越に話した。
本当に話してしまっていいのか…不安だったと思う。

真実を話したとしても、それは
『そういうことだから、辛いけど残り少ない時間を大切にしましょう』
ということじゃない。
そう言われたけど、そんなことは誰にも分からない。
例え医者が完治しないと言っても私達は治る方法を調べ続けるし、
そんなのは絶対に信じない。

医者がそう言うからそれは伝えるけど、私達はぜったいに諦めない。
そんな生き方はお父さんらしくない。
可能性があるならばやる。絶対に諦めずに行動する。
お父さんはそういう人だ。


何があっても 『諦めた』 という雰囲気にだけはしない。

そう決めてそれぞれの布団に入った。

寝たと思っていたカズは次の日その話を全て聞いていた。

10月30日(火)     中止 

18時前に病院へ着くなり、お父さんは
『医者に電話しろ、いいから呼んで来い』 と言う。

ちょっとした来客と回診がバッティングして先生に会えなかったようで、
午前中に撮ったお腹のレントゲン結果が気になっているようだった。

たぶんもう帰っているだろうけどダメ元で頼んだら先生がきてくれた。
腸はよくなっているので明日の朝からご飯OKでとてもホッとした様子。

それにしても今日はもうろうとしていて、寝ながら独り言を言ったり
朝からお母さんに 『ここは翠蘭高校(出身校)だろ』 と言ったり
あとから来たカズに 『よくここが分かったな。』 と言ったりしていた。

『今日どうやって帰る?』 と聞く。

点滴を2回やって・・・ 同じ説明をした。

『期待できるのか。』

・・・


なんて答えたかは覚えていない。

きのう先生が言ったイライラを抑える薬、たぶん安定剤のようなものなのか、
そのせいか今日は穏やかで、それ以上つっこんで聞いたり今すぐ帰ると
言い張ったりしなかった。

今日お父さんは 『自分の体が弱ってくるのが分かる』
とお母さんに話したそうだ。
夕方、背中と腰が痛いと言うお父さんを横向きにしてさすった。

今日お父さんは様子がおかしかった。
目は四角くなくなったものの、うわ言が多く、
喜んでいいのか分からないくらい変に穏やかだった。



家に帰って安定剤について話した。

お父さんが少し穏やかな顔になってホッとする反面、
うわ言の多さと急に弱気になったお父さんがちょっと心配だった。

カズはその薬が気に入らない感じだった。
恨めしそうな強い目つきで話した。

お父さんが幻覚を見たり幻想を話したりすることを、
カズは家族の中で一番嫌がっていた。

その気持ちは痛いほどよく分かる。

あの、しっかりしたお父さんが。
あの、何でもよく知っているお父さんが。

ラジオを聴いて登板する、と言った時も、
競馬を聞いて馬の話しをした時も、

『お父さん、ラジオだよ!』

ラジオだよ!! カズは必死に訴えた。
お父さん、しっかりしてくれ!
お父さん、還ってきてくれ!

カズは適当に話しを合わせたりしなかった。
お母さんは最初まともに応えてお父さんと衝突し、
適当に流す術を覚えた。
私は “?” という顔を見せないようにして適度に話を合わせた。

カズは、お父さん違う。それは夢だ。それはラジオだ。
一つ一つ説明し、訴えた。
『ラジオ聴きながら寝てたらだよ。』 自分に言い聞かせるように言った。


お父さんに全てを話すのは中止になった。

みんな迷っていた。
何が正しいのか、何が一番いいのか、誰にも分からなかった。

一日一日、小さなことに日々、一喜一憂した。

医者や看護士からみれば、日常茶飯事のこと、別に珍しくないこと、
しょうがないで片付けられること。


この世にたった一人の、私達のお父さんの命。

10月31日(水)     恐い夢 

改装の件で13時から玉ちゃんが家に来て
改装の打ち合わせをするのにお母さんが病院を抜けた。

お父さんは行きたそうにしていた。

そうお母さんからメールが来た。


仕事が押して今日はムリか…と思ったけど
メールによるとお父さんは微熱と血圧が高めで、調子が悪そうなお父さんの様子が
気になったのでなんとか切り上げて向かう。

19時過ぎに行くと、カズが片付けをしていた。

昨日からまた、貸切状態になった。


今日は一日寝ていて朝は食べず、昼をほんの少し食べただけで夜も食べなかった。


寒いのでセーターを着る、と言うので例によってユニクロで買ってから行ったけど
お母さんが何度も着るように言ったら
『うるせえ!』 とかなり機嫌が悪く、結局セーターは着なかった。

日中、リハビリのために車椅子でB1まで行ったけど気持ち悪くなって戻ったようで、
腰も痛く、 『おまえらの計画はよく分からねえ』 と、言った。


例によってカズが必死に説明すると、 『じゃあ寝るわ』 とお父さんは言った。

こんな時、お父さんを説得できるのは、カズが最期の砦だった。


『自分はどぶ板の上に寝ていて周りはみんな知らない人だらけでみんなに置いていかれる』
 
お父さんは言った。

“夢” と言ったと思うけど、まるで実際あったかのように、お父さんは話した。

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