闘病記


2007年

9月  10月  11月 


9月4日(火)     入院

ずっと痛そうだった腰。 ひきずっていた足。

ついに起き上がることも困難になり
全身に油汗。

お母さんが病院に電話してなかば強引に入院。
救急車で運ばれたにも関わらずかなり待たされた。

たまたま診た整形外科の先生が言った。

『ここ(お腹)からきてるな』

『さすが整形だな』 と主治医。

医者ってそういうものなのか?

レントゲンに影あり。
骨転移の疑い。

ネットで調べるが何を調べていいかも分からない。
調べれば調べるほど、怖くなる。

9月5日(水)     不安

痛み止めの薬が合わず何度も吐いてつらそう、と母。

少しでも明るい情報が欲しくて色々検索する。
恐ろしい文章が淡々と並ぶ。

“死とは切り離せない” “余命数ヶ月”

勝手なこと言うな。 誰が決めたんだ。
プリントしては、破り捨てる。

お母さんと一緒には泣けなかった。

2人で泣いたらどこまでも堕ちてしまいそうだったから。

9月6日(木)    骨転移確認

大きい台風がきていた。出先から早めに帰宅。
お母さんの目が真っ赤だった。

余命を宣告されたかと思ったけど怖くてなかなか聞けなかった。

お父さんは3食とらず、ポカリを飲んで30分後、吐いた。

夕食をとりながらお母さんが泣いた。
初めて2人そろって泣いた。

MRI 骨転移確認。
脊髄にも腫瘍があり、形状から悪性の疑い。

9月7日(金)    すべてのことが、

毎日見ていた景色、毎朝バスで見かける人。

見るものすべてが、今までと違って見えた。

笑う人、歩く人、走る人

なんでみんな笑ってるのか、

なんでみんな歩いているのか、

なんでみんな走れるのか、

全てが不思議で、全てが羨ましかった。

当たり前のことが当たり前である幸せ。


この世で多くの人が親の死を経験し、
今こうして笑って、歩いて、普通に生活しているというのなら、

みんながすごい人に見えた。

みんなが強い人に見えた。



仕事帰りにカズも病院へ。
病院の隣のデニーズで私も合流。
カズがごちそうしてくれた。

痛み止めが貼り薬に変わり、痛みとれて元気そう、と二人。

画期的と思ったこの貼り薬がモルヒネだったとは、この時知らなかった。

CT検査。髄液採取。結果は一週間後。


9月8日(土)    残った財産

やっと来た週末。 初めてのお見舞い。

物々しい雰囲気。 病院の匂い。 2年半前と同じ、懐かしく不安な匂い。

前はお父さんんに点滴がつながっただけでも怖くてしょうがなかった。

検索した情報の中から、ある程度の現実と、希望の持てる資料を選んで持って行く。

それを見る元気すらないこととは思わずに。


お父さんは気丈に振舞った。
『まずは体力をつけなきゃな。腕には自信があるんだ』 と言ってガッツポーズをした。
『こうなったら逆メタボ対策だ!』 と言って昼食を少しずつ食べ、ポカリ半分を一気飲みした。

そして言った。
『それで3年生きれるならモルヒネでもなんでも打ってみろ!なんでもやってやる!』

“3年”という数字がリアルに響いた。
10年ではなく、3年。

そしていろんな話をしてくれた。

お正月に大阪のおばさんに栗きんとんを送ってあげたらとても喜んでくれた話。
大好きだったおばさん。聞き取るのが難しいくらい泣きながら話す。
泣いているお父さんを見るのは初めてだった。

【親を捨てるやつは信用しない】
お父さんの、親に対する複雑な想いがこもった言葉だ。

お父さんがやっていたお店の話。
当時はすごい流行ってたんだ。
みんな山越えて買いにくるんだぞ。

私が学生時代の夏休みに企画したファッションショーの話。
こんなすごいことができるのか!と感激したね。
まーが自分の好きな大学へ行ってがんばってて嬉しかった。
大学へ行かせた甲斐があった。

その時お父さんが撮ったビデオの話。
モデルで出てもらった男の子3人が、そのビデオを見すぎて
テープが擦り切れたと言ってうちに来た。
『それ聞いて嬉しかったなー』と言うお父さん。
たしか最後は私のドアップばかりの、親バカ丸出しのビデオ。
見る度に彼らにもからかわれたなーと話す。
“ぼくの気持ちだ” とお父さんは言った。

カズのバスケの話。栄光の小学生時代。
おやじも見にくればよかったのに。
ルールなんかわかんなくたって絶対楽しいのにな。


…でもいい親だったよ。

15時頃お母さんも来た。
沢山話したせいか、だんだん辛そうになってきたけど
帰り際、『今日は順追って話ができた』 と満足そうだった。

【残った財産は雅子と和だけだ】

今となっては親、兄妹とも絶縁状態になってしまい、
自分の家族だけが宝だったお父さんの言葉だった。

9月8日(土)    夜中

お父さんが入院してから、状態がよくないことや、医者の誤診への不信もあり、
ガン専門も病院へ転院しようと話していた。
少しはツテがありそうなルンちゃん(お母さんの妹)にあたってもらいように
頼んでいて、返事を待っていた。

そして現実の厳しさと残酷さを知った。
転移した患者はなかなか受け入れてもらえないということ。
仮に入れたとしても邪険に扱われたりするということ。
お父さんが総理大臣ならすぐにベッドが用意してもらえるんだろうけど。

それでも今できる一番いい医療を受けたいと思い、パソコンで病歴の資料を作っていた。
そこにルンちゃんから待ちに待った電話がきた。

お母さんの様子から、内容がいい結果ではないことはすぐに分かった。
そして、もっと怖い話を聞いていることも分かった。


『もう死んじゃうんだって』

電話を切った瞬間、お母さんは号泣した。
『まー、どうする?』
と言ってお母さんはただただ、泣いた。
『なんでそんなこと言うの?なんでそんなこと言うの!』
言葉がなかった。それしか言えなかった。
二人とも、泣くしかなかった。

周りで色々な実例を見てきたルンちゃんが、お気楽で何も知らない
私達に現実を教えてくれた。
一般的に見て、長い命ではないこと。
転院先の候補には静岡に新しくできたガンセンターがあった。
そんなに遠くていいのか、と。
残された時間が長くない、ということ。

お母さんは言った。
『お母さんがあんまりマヌケだから、しっかりしなって教えてくれたんだよ。』

脊髄に腫瘍があると聞いた時、お父さんは言った。
『脊髄って言ったらもう最後ですよね?』
とっさに医者は返した。
『そんなことないですよ。今はいい薬がありますから。』

お母さんは自分を責めるように言った。
『先生がそう言うから“そうなんだ”と思ってた。ほんとにマヌケだね。』

そして私が 「お母さん余命聞いたのかと思った」 と言った時だったか…
『じゃああんたも知ってたんだ。じゃあお母さんだけじゃん。
ほんとにバカだね。なんでこんなにマヌケなんだろうね。』


確かに色々調べたよ。
“死と隣合わせ” “余命数ヶ月”
でもそんな文章は破り捨ててやったよ。
だってまだ何も分からない。お父さんは違うかもしれないじゃん。
もしその通りだったとしても、知るのが2.3日遅くてもいいと思ったんだもん。
まだ分からないのに、心配だけしても悲しいだけだと思ったんだもん。

黙ってたというならば、ごめんお母さん。
お願いだからそんなに自分を責めないで。

お母さんの隣で眠った。
お母さんは目を閉じているのに “悲痛” の顔をしていた。
たぶん、私も同じ顔をしていただろう。
もう3時か4時だった。 全然寝付けなかった。
そして6時には目が覚めた。

9月9日(日)   ガンなんていなくなれ!

病院へ行く前にカズに電話した。
何を言ったかはっきり覚えていないけど、現状を共有して欲しかった。

お父さんはもしかしたら余命数ヶ月と言われるかもしれないということ。
だから一日一日を大切にして欲しいということ。

カズは私の話を淡々と聞いていた。
ちゃんとわかってるの?! というくらいに。

淡々と聞いた後、カズは言った。
『夕方行くからそれまでおねぇ、しっかりしろよ。』
『暗い顔すんじゃねえよ!』

泣きながら弟に電話して、活を入れられた。
男の子とは、女とはまったく違う生き物だと思った。
自分は気丈にしていなくてはいけない、という意思が伝わってきた。

ちょうどお昼に病院へ行ったけど、お父さんはご飯を食ず、
ヨーグルトを口に入れたら2口で吐いた。

眠剤が効かず眠れなかった、と元気がなかった。

『なんでこんなことになったんだろうな』
『なにもいっぺんにこなくてもいいのに』


麻痺が酷い、左の膝をさすっていたら、『どこ触ってる?』 とお父さんは聞いた。
感覚がないんだ・・・
ふくらはぎの裏がいいと言うのでマッサージした。

【元気になれ、元気になれ。ガンなんていなくなれ。】

涙が止まらなかった。 鼻水も垂れてきたけど、さする手を止めたらいけない気がした。
ずっとこうしていれば、動き出すと思った。 そう信じたかった。


ピクピクッと、何かが動いた。痙攣のような、一瞬だった。
『今、動いたな』 とお父さんにも分かった。
気持ちが通じた。そう思いたかった。動けるようになった訳ではないけれど。

15時頃、お母さんも来て、鼻水を拭いてくれた。
お母さんと左右の足をマッサージした。

お母さんが横でウトウトしていたら、つられてお父さんも眠った。
お母さんが来て、いつものように先にとっとと先に寝ちゃって、
それを見てお父さんは、なんだかホッとして眠った気がした。


そして昨日の話を振り返り、『まだ何個か抜けてた』 と言って
休み休み続きを話してくれた。

【家族の間で隠し事なんてしちゃダメだ】
そこだけは、力強く言った。
自分の親、兄妹との話だったけれど、後々の闘病生活において、この言葉をよく思い返した。

夕食も食べず、お茶だけ飲んだ。
夕方になるとだんだん疲れてくる。左を向いて、背中をさすった。
歯茎も痛い。もう眠る。と言うので19時前、おやすみを言って帰った。


昨日、お父さんがあのファッションショーにそんなにも感動してくれてたなんて初めて知った。
なので昨日、帰ってお父さんが撮ってくれたビデオを見つけた話をした。
『宝だな』  お父さんは一言、そう言った。
昨日、久々に出したビデオテープ。
そこに書かれたお父さんのきたない字。“2000.9.18 マーファッションショー”
7年前のお父さんの誕生日だった。
今までで一番いいプレゼントだったのかもしれない。



毎晩あてもなく検索し続けた。
すればするほど、絶望のどん底へ落とされた。

いっそ、一瞬で命を奪われた方が本人も家族も楽なのではないか、とすら考えた。
どうしても、現実が受け入れられなかった。

でも違う。

現実は辛すぎて受け入れがたいけど、
この二日間でお父さんとこんなにもいろんな話しができた。

残された時間が少ないかもしれない。
そしてそれはとてもとても辛い時間になるかもしれない。
けれどこうしてお父さんと話す時間が与えられた。

ガンに感謝する。
わたしはそんなに心の大きい人間じゃない。

ガンが憎くてしょうがない。

けれどこうして、お父さんと話す時間が与えられた。

9月10日(月)   奇跡じゃなくて

しばらく16時半に早退させてもらうよう会社にお願いし、
18時前、病院に着いた。カズも着いてる。

カズの力で左向きになったけど辛そうなお父さん。
点滴がステロイド剤が多いのに変わった。
なんだかよく分からないけれど、
『なんでも打て』 とお父さんは言った。

コーラを2本飲んで、夕食は食べず、氷を食べた。

『夜がなげぇんだよな。』 と言いつつも 、
『みんなでここにピクニックにこなきゃな』 と笑ってみせた。

家に着くと、カズは真っ先に台所に立って、ご飯を作ってくれた。
初めて食べる、カズの野菜炒めとサラダ。
すごい量の野菜を3人でムシャムシャ食べた。

今日お母さんは10時頃病院へ行った。
転院は難しい事、できてもそれがいいとは限らない事を
お父さんと話し、お父さんの考えで一番トップの医者を呼び、
『ここに任せるからしっかり診てくれ』 そう言って印篭を渡した。
ここの病院に任せるしかない。そう決めた。

家に帰って来て泣きながらお母さんは言った。


『奇跡じゃなくてちゃんとやってよ』

本当にその通りだ。

9月11日(火)     ジャグジー風呂

ICE BOXとミニポカリを買って17時半位に病院へ。
昨日の点滴が効いてか、今日は元気。
声も大きく、よくしゃべる。

今日は日中、初のお風呂に入った。
それもなんと、ジャグジー風呂らしい。
『いやぁいいよ。気持ちよかった〜』 とさっぱり。
ご飯も3食食べて、ポンパドールのデザートまで!

方向音痴のお母さんが何度も部屋を間違える。
おばさんのお化けがでるって噂になるな、と言って笑った。

18時頃、コーラとビタミンドリンクを持ってカズ登場。
昨日カズが野菜炒めを作ってくれた話。
『いいね〜そりゃ食べたいなー。』 とお父さん。
『すぐ行くから待っててね。』 お父さんはそう言った。

帰り際もまだしゃべり足らなそうだったけど、日中もほとんど寝てないし、
また疲れちゃうので19時頃帰る。
今晩は私が作ったナス&トリ蒸し。

この日、ルンちゃんからお母さんにメールがきた。
入院中のおばぁちゃん、自分の退院の日は何度言っても忘れるけど、
お父さんが具合が悪くて入院したとこだけは、一度聞いただけなのに
ずっと心配している、と。
さすがうちのばぁちゃんだ。 大切なことだけ覚えてる。 涙がでるね。

私はこの日、早く休んだ。
夜中、お父さんから電話とメールがあったそうだ。

9月12日(水)    カリフラワー

表参道から直帰だったのでEchikaでお高いプリントとエクレアを購入。
高級品は胃におもたいのでミニポカリとマックシェイク、
クーリッシュのバニラも買って病院へ。 どれかしら食べるかな。

今日もよくしゃべり、元気。
日中は昨日でた朝晩の胃薬を昼も飲んじゃって大騒ぎ。
昨日ベッドに吊るしてた時計は右手にしていた。

カーテンレールに字が書いてある、とお父さん。
日中からずっと言っていらしく、お母さんは “???”
私が行った時は 『今は見えねんだよなー』 と天井を見ながら言う。
書いてあるのは 【カリフラワー】
料理本のような字体らしい。

昨日お父さんからの電話&メール騒ぎの内容…
昨日、別室に移動していった前のベッドのおじいさんが
実はどっかの偉い人で、夜中に五、六十人が廊下をぞろぞろ歩く音がしたと。
病院で株主総会をやってた。?
(生きてるうちに、と?)ハンコをもらいにくる人がいた。?
ブーツ履くとか言ってたからあいつは魚屋だろう。
(うーん、たしかに魚屋のような黒い長靴がベッドサイドに置いてあったけど…。)
オウムの薬がなんとかで…
しまいには自分は立っていた!と。


お父さん曰く、部屋は埃がものすごくて、看護士に言って
ベッドごと別室に移動したらしい。(移動したのは本当のようだ)
移動した所は病院じゃなかった。後から聞いたら院内だって言うけど
なんかおかしい、と。
朝になって昨日の騒ぎのことを看護士に聞いたけどみんなとぼけてる、
と言って怒っていた。

カズがコーラとスプライトを持って来た。
待っていたかのようにお父さんは言った。

【カリフラワーって書いてあるだろ?】


夕食を食べて、マックシェイクとコーラを飲んだ。
その後も廊下から声がすると、
『魚○(前職の会社)の社長の声だ』 と言ってみんなを驚かせた。

今日は日中から冗談連発で、
腫瘍はあっても、髄液はきれいに流れてる画像を見て、
“いけそうな気がするから頑張る” とお母さんに言ったそうだ。

9月13日(木)    直林 口折

昼過ぎにお母さんからメール。
“血糖値上がって甘いものドクターストップ。”
どうやらコーラ飲んだ直後に計ってなんと血糖値400。
インシュリンを打たれたそうだ。
お父さんがおいしそうに食べるのが嬉しくて、みんなで
甘いもの買いすぎたか・・・。

しょうがないから今日はミニポカリだけ買って18時過ぎに病院へ。
先週採寸したコルセットがきて具合いいらしく、機嫌もよく、
夕食もしっかり食べた。

隣のベッドには、追浜で喫茶店を営むというオジサンが入院。
後に奥さんと娘がお見舞いに来て、うちに負けじとにぎやかで助かった。


整形外科の先生に呼ばれ、お母さんと一緒に話を聞いた。
脊髄のレントゲン写真には小指の第一関節ほどの腫瘍が写っていた。
これが足の神経を圧迫して麻痺を起こしている。

それは脊髄の真ん中にあるように見えるらしく、珍しいそうだ。
位置が悪く、神経が集中している場所なので、手術は難しい。
下手にいじれば脳や他に影響が出る危険が高い。
なので悪性かどうか調べるのも難しいが、おそらく骨からきている。
つまり悪性の疑い。
開くだけでもかなり体力を消耗するし、そうしている間に肺の方が
進行してしまう恐れがある。

今は髄液はきれいに流れている。
腫瘍が大きくなったら圧迫を軽減する手術はできるので
今は様子を見て、まずは肺の治療を優先させるしかない。


カズがきて、足のリハビリ。コルセットして歩く気マンマンのお父さん。

昨晩はカズの友達グループが廊下でバスケの話をしてた。 とお父さん。

お母さんに、お昼に暗い顔して隣でおにぎりなんか食べてないで元町でランチでもしてこい、
と言うお父さん。


週末にお父さんがしてくれた沢山の昔話。
こうして振り返るとけっこう波乱万丈な人生。
自分史を書いたら下手なドラマよりよっぽどすごいね、と盛り上がった。

帰り際、『決まったよ』 と言ってみんなに教えてくれたペンネーム。

『直林口折』

お父さんらしいなーさすがのセンス。
鈍いお母さんでもすぐにわかった。

9月14日(金)    さとちゃん

何か買わないと気がすまないのでほうじ茶を買って18時病院へ。
夕食はすき焼きともやしの和え物。 よく食べてほうじ茶も一杯。
昨晩はポカリもストップされたけど、今日OKでて昼にガブ飲み。
『うまいっ!』 ってポカリがお気に入り。

前のベッドにおじさんが来た。
この人はどうやら自分の名前を書くことができないらしい。
お父さん曰く・・・このおじさんは身寄りがなく(これはほんとっぽい)
社長が身元引受人で、その社長は八百屋で、たぶん知ってる人だ、と。
お父さんにかかればみんな八百屋や魚屋になってしまう。


カズは金曜で少しおつかれのようだけどお父さんの足のリハビリ。

コルセットにヘソマーク【×】が付いていた。
元は整形外科にいたというリハビリに詳しい看護士に書いてもらったようで、
お父さんはこの看護士を、
『あの人は大事にしてんだ。』 と言って笑っていた。
けっこううまいこと看護士を使い分けているあたり、さすが。笑

時間の感覚がなくなっていて、もう一週間くらいコルセットをしてる
ような話をしている。


整形外科の先生が来るかもというので待ってたけどなかなか来ず、
珍しくお父さんは 『もう帰ってくれていいよ』 と言った。
カズが疲れた顔をしていたので心配したのかもしれない。

本の題名も決まっていた。


『さとちゃん』


お父さんの子供の頃からのニックネーム。
お父さんはそれを大阪弁で言って、
『発音がむずかしんだよなー』 と言って笑った。

確かに、文字で発音を伝えるのは難しいよね。

9月15日(土)    ほうじ茶作戦

午前1時半過ぎ、お父さんからメールが来た。
【題名;ポット】
300mlから500ml 家庭内在庫歓迎 持って来て。

お母さん宛てには、トマトとりんごのリクエスト。

トマトとりんごは “おしりが青いやつ” というのがお父さんのこだわりで、
なかなかご希望に沿えるのを探すのが難しく、
私もお母さんもスーパーに行っては怪しまれ、病院へ行っては怒られた;


銀座から直帰。
お父さんのバースデーカードを選んでたりしてたら18時半になっちゃった。

お父さんの後ろにかかってたベットの角度制限の手書きの看板が、
“ベッドアップ 痛みなければフリー、車椅子可” に変わっていた。

先にカズが来てて、今日は路駐だから、と食後にリハビリだけやって帰ってった。
カズは、どっかで教わったの?といくらい、リハビリが上手だった。


この頃、あんだけ飲んでいたポカリがまずくなってきて、
最近のお気に入りはご飯の時にでるほうじ茶。

お母さんが買ってきたポットを持って私が食堂でお茶をわけてもらう作戦。
地下へポットを持って乗り込むわたし。
そこにいたのは若い女の人だった。

『3Cの植木と申しますけど』
  『あっ、植木さん!』
 
・・・さも知っている口調。

なんで?文句が多いと噂なんだろうか;
いつも家族が大集合でうるさいと噂なんだろうか;

『父がここのお茶がすごく気に入っていて…』
事情を話すと、今日はもう終わりだから明日ご飯前に来たら
わけてもらえると言ってくれた。
その人曰く、ほうじ茶ではないらしいけど、何茶かは分からないそうだ。

ステロイド点滴は今日で終わり。

お父さんは兄妹の話をしていた。
楽しかった大阪での幼少時代。
みんながみんな面白い大阪人。
冗談の大合唱を 『芸術やで〜』 と言った姉の話。

9月16日(日)    ほうじ茶×2

明け方、お父さんからメールが来た。

【5:18 カズが来るとき】
本三札から五冊 それを入れる箱どの本かは? おかぁにきいて
重いからカズに自転車で

【6:44 ブートバンド】
さらし

【7:52 ひゃっくり対策】
100パーセントポッカレモン小ビン

本と箱とさらしを持って10時半に病院へ。

さらしは、話題のビリーズブートキャンプのブートバンドの代わりとして足に引っ掛けて
自分でリハビリをする、というお父さんが考え出した作戦だった。

しかしさらしはすべっちゃってダメだった;


レモンは、前のオジサンが今朝退院する時にひゃっくりに効くと教えてくれたそうだ。


コルセットの【×】マークは夜は暗くて見えない、ということで
小さいボタンを縫い付けてデベソの出来上がり。
お父さん、ほんとにいろんなこと考えるね。



自分の母親が亡くなった時の話をしながら、お父さんは泣いた。



お昼頃お母さんも来た。
今日のお昼からほうじ茶が2杯でることになった。
とたん、 『なんかたいしたことねぇなぁ』 とお父さん。
おーい! でもなんか、分かる気がするそのキモチ。笑
お父さんが眠そうにしてたので席を外し、お母さんと2人でスタバに行った。

私はそのままお父さんの誕生日プレゼントを買いに行って夕食の支度をした。
カズは昼過ぎに病院へ行って一度うちへ帰り、仮眠をとって
19時半頃お母さんを迎えにまた病院へ行った。

朝、ベッドをけっこうな角度まで上げて 『だいじょぶだよ』
  と言っていたけれど、今日は体も拭いてもらい、少し疲れたみたいだ。
しゃべりすぎると血圧が上がると自覚したみたいだった。

9月17日(月)    敬老の日

10時頃病院へ。
私が休みの日は朝先に行って、お母さんは洗濯物を干したり、日ごろできない用を済ませ、
昼頃来るというサイクルになっていた。

今日のブームはレモン系のビタミンドリンク。
けっこう沢山飲んだ。 …ら、また血糖値上がっちゃった;
なぜか飲んだ後にかぎって計りにくる。

お父さん少しウトウト。
11時頃お母さん到着。
私はこの連休を利用して、お母さんの代わりに
退院したおばあちゃんの様子を見に、今日は湯河原へ行くことにしていた。
お父さんを心配しているおばあちゃんのために、昨日買ったポラロイドで
お父さんとお母さんを撮った。



おばぁちゃんは驚くほど元気に回復していた。
写真付きメッセージカードと、敬老の日&退院祝いのスカーフをプレゼントして、
元気なおばあちゃんとまなと(いとこの子供)をカメラとビデオに収めて帰った。

病室では…夕方、お母さんとカズでラジオを買いに行っていた。
お父さんの持ってたラジオも小型TVも電波が入らず、
まったくつかえねーなーと言っていたのに、
隣のおじさんのラジオは電波が入ってるらしく、同じものを買ったそうだ。


私は一足お先に帰ってチャーハンと回鍋肉を作った。
そして3人でお父さんのバースデーカードのメッセージを考えて、寝た。

9月18日(火)    61歳の誕生日

今日はお休みをいただき、小さいカゴのお花を買って10時過ぎに病院へ。
昨日撮ったビデオを見せた。
穏やかな顔で見ていたけど、ずっと見ている元気はない感じだった。
いつもなら、どんなにか楽しそうに見るだろうに。

口の中が乾く、と言って売店で買ったゼロカロリーのペプシを飲んだ。

若い整形外科の先生が足を診に来た。
すね毛をひっぱって聞いた。

『痛いですか?』
 


『痛くないです。』

またMRI検査をすると言って先生は去って行った。

朝、看護士さんに足をマッサージしてもらって気持ちよかった、と言ったお父さん。
足の麻痺は確実に進行していた。


お父さんはまたお店の話をしてくれた。
いろんなものを仕入れるだろ?
でもやっぱりオリジナルにしたいと思ったんだよ。
で、考えたんだよ。どうしたか分かる?

“安くすんだよ”

本当に、楽しそうに、話した。


昼過ぎにお母さんが来た。
14時から待ちに待ったジャグジー風呂。
『すごいからおまえも見せてもらえ』
  というお父さんの勧めで見学させてもらった。

一人でお風呂に入れない人のためのお風呂。 部屋までストレッチャーでで送り迎えが来る。
ずっといるのは迷惑そうだったのでチラッと見て、
お父さんがお風呂に入ってる間にお昼を食べた。

昨日撮った写真を現像して病室に戻ると、
お父さんもお母さんも寝ていた。

その間に今朝壊れてしまったケータイを直しにDocomoへ。
16時半過ぎにレモン水を買って病院へ戻った。
またしても血糖値が上がってしまった。。


夕方、カズが来てみんな揃ったところでHappy Birthday!

テレビもパソコンもない病室で、お父さんが日頃から撮っていた
写真が見れるようにと買った小さいDVDプレイヤー。

歩けないお父さんに…と、最後まで迷ったけれど、
車椅子の時だって便利な今話題のクロックス。


家族4人での写真撮影。



お風呂に誕生会、と一日ハードでお父さんがウトウトし始めたので、
昨日みんなで文章を考えたバースデーカードにさっき撮ったポラをセットして渡した。


さとちゃんで 印税生活 頼んだよ!
それまで一緒に がんばるぞー!


さとちゃんを、大阪弁の発音風の文字で書いたつもりだった。

『ちがうんだよなー』

・・・そう言うと思った。笑

そしてお父さんは言った。


『来年も頼むね。』

9月19日(水)    余命宣告

ちょうど夕食の時間、18時に病院に着いた。

『医者が、車椅子になるって言うんだよ』
  着くなり、お父さんは怒っていた。

足は諦めるように。
今後は車椅子の生活になる。

  そう宣告された。


夕食もおいしくない、と言って、柴漬け入りのお茶漬けと、巨峰を3粒だけ食べた。

眠剤が変わり、痛み止めのモルヒネの量が倍になった。

髄液の検査では悪性反応はなかったものの、開いてみた訳ではないので
この結果が白でも腫瘍が悪性の可能性はある。
結果はグレー。

やっぱり足は動かない。


帰りの車で、ジョナサンでご飯を食べながら、お母さんは泣いていた。
医者が言ったのは足のことだけではなかった。

お父さんの余命は、『8ヶ月』と宣告された。

そしてお父さんには、足のことだけを伝えた。


お父さんは、がっくりした。

そして言った。
『車椅子で運転できる車に買い換えなきゃな。それしかないだろ。』

非常にお父さんらしい切り替えだと思った。

9月20日(木)    車椅子

午前中、車椅子に乗って体重を量り、B1の売店まで行ったけど
気持ち悪くなって吐いてしまい、お昼も食べずに寝た。 とお母さんに聞いた。

昨日、お父さんはがっくりしながらも瞬時に気持ちを切り替えた。

病院のまずい飯じゃ体力がつかないから、
明日からデパートでおいしいお惣菜を買って来てくれ、こっそり食べちゃおう!と言った。

それならそれで車椅子でガンガン動いてやる、
そう思って朝から車椅子に乗ったに違いなかった。


いつもより早く会社を出て、そごうで一口カツとえびマヨサラダと
ミニクロワッサンを買って病院へ行った。
お父さんはまったく食べず、今日は眠そうでウトウトしていた。

カズは風邪っぽいので病室には来ず、
19時半頃病院の下でお母さんを拾って2人は先に帰った。

お父さんが眠ちゃったのを見て、セットしたDVDに
  “おやすみ” と書いた付箋を貼って帰った。

9月21日(金)    元気がない

品川から直帰。 肉だんごとりんごとレモン水を買って17時半、病院へ。
ご飯は食べず、りんごだけ食べて、お粥の後にレモン水を飲んだら吐いてしまった。

今日は日中、座る練習とリハビリをしたそうだ。
足にはまだ少し、蹴る力が残っていた。
お母さんは今日もカズの車で少し早く帰った。

肺のレントゲンもとり、今日はイベントが多くて疲れたようで、
19時半前、お父さんが寝たので昨日と同じ付箋をペットボトルに貼って帰った。
目が覚めた時、お父さんが寂しい思いをしないように、と思った。

お父さんは今日、何を言っているか分からないほど、声が小さかった。

今日の夕食は、カズの作った豚バラ丼とサラダだった。
お父さんが食べなかった肉団子はカズが食べた。

9月22日(土)    歩くこと。生きること。

18時、スーパーで梨を買って病院へ。
眠そうで、体がだるい。
病院の肉団子はマズイと言って、竹の子少しとお粥、梨を1/4食べて吐いた。

日中はコーラと缶コーヒーをうまそうに飲んだ。とお母さんに聞いた。
お昼にうまそうにトマトを食べたけど、吐いてしまったそうだ。

お父さんがウトウトしてきたのでDVDをセットしてお母さんと帰った。
今日はカズがいなかったので二人でお刺身を食べた。


動かなくなった足を暖めたけれど、“暖かい”という感覚もなかった。

車椅子宣告のあの日から、お父さんは元気がなかった。


お父さんが歩けなくなると分かった時、足なんて動かなくてもいいと思った。
足なんて動かなくたって、こうしてお父さんと話ができればそれでいいと思った。

でも違った。

お父さんにとって、“歩くこと” と “生きること” は
限りなくイコールに近いということを思い知らされた。



何がなんだか分からないけど、ひたすら検索した。

今見れば、どう見てもいんちきな健康食品をプリントアウトした紙。
【ガンは治る】 なんていう魔法の水。


あの足を、なんとかしたかった。



お父さんを歩かせてあげたかった。



たとえ命が削られたとしても。

9月23日(日)    ぼくはどうすりゃいんだ?

10時過ぎ、病院へ行った。
『どうやって来たの?』 お父さんは聞いた。
前にも同じことを聞かれたことがあった。
『お父さんが?』 と聞いたら
『おまえだよ』 と言われた;

『ここどこ?』 お父さんは聞いた。
『3階だよ』
  『横浜の病院じゃないよな?』

“カリフラワー” 以来、お父さんはちょくちょく不思議なことを言った。


朝、お父さんは熱があって暑そうだった。
ゼロペプシコーラを飲んだ。
おしぼりで顔を拭いたけどサッパリせず、元気がなかった。
カズ、昨日カメラ持って帰ったから、今頃海で写真撮ってるかもね。
と言った時だけ、少し笑った。


看護士さんが体を拭いてくれて、シーツなど全て取り替えた。
熱も引いて少しサッパリしたようだったけど、元気がなかった。

『ぼくはどうすりゃいんだ?』

早く帰りたい。お父さんは言った。


12時過ぎにお母さんが来て交代。
お昼もほぼ食べなかったそうだ。

15時に戻ったらカズも来ていて、お父さんは寝ていた。
私と交代に、お母さんとカズは家に帰った。

昼過ぎに看護士さんが来て、リハビリをしてったそう。
『イタカッタラゴメンナサイ』 という不慣れな看護士に、
『いいよ、恨むから』 と冗談めかしてお父さんは話していたそうだ。

うわごとを言ったりしっかりしたりで、
『誰かに命を狙われている』 とお母さんに言ったそうだ。

夕方、お母さんが戻ってきた。
夕食は玉子スープとお粥を少ししか食べなかった。
クインズ伊勢丹で上等なおしりの青いりんごを買ったけど、それも食べなかった。
カズが買ってきた野菜ジュースは、全部飲んだ。

足をさすったら、さすってるのは分かる、と少し嬉しそうに言った。
リハビリ運動しながら、『はい蹴って〜』 と言ったら、
『相手がいねぇ』 と冗談を言った。

9月24日(月)     ガンって強そうだな

早起きしてラタトュイユ作ってから、10時半頃病院へ。
お父さんは寝ていて、少し汗をかいていた。
昨日の帰り際に置いてったお茶とお水がけっこう減っていた。
看護士さんに買って来てもらったのか、朝行ったら既にあったポカリを半分くらい飲んだ。
『カード取って』 と不思議なことを言ったりコルセットを外したり、うわごとが多かった。

午前中、お母さんが手伝って足のリハビリ運動をした。
お母さんにも変なことを言っていたそうだ。
『羽田から来たのか?』
なにやら世界旅行の夢を見てるのか・・・
そしてまた、命を狙われている、とお母さんに言った。

連休で医者の姿が見えず、動きがないのが不満のようだった。
『今日は帰れないの?』 と言って看護士さんを困らせていた。

お昼は味噌汁を2/3とお粥を2口食べた。
スプーンで口に運ぶと
、 『こんなの食ってるうちに入らねぇ』 と、お父さんは不機嫌そうに言った。

モルヒネの副作用か、お父さんは遠近感もおかしくなていた。
マイブームのほうじ茶も、湯のみが口につく10cm以上前から
飲む時の口をして湯のみを傾ける。
自分では分からないので私たちが手を出すを嫌がるけれど、
ほおっておけばこぼれてしまう。


この頃、マイポットにティーパックでほうじ茶を作っていた。
隣の給湯室のお湯は、普段は恐ろしく熱いくせに
朝一はまだ温まってなくてぬるいことも多かった。

『ちょうど対称のところにも給湯室があるよ』

とお父さんが言うので行ってみると本当にあった。

『建物ってのはだいたい対象にできてんだ』

なんでこんなになんでもよく知ってるんだろう。

それからは、ポットを持ってこっそり違う病棟の給湯室に行くのは
私の役割りになった。

『えっ?なんでなんで?どっからとってきたの?』
相変わらず鈍いお母さんに、お父さんは言った。

『この計画にいれてやんねえぞ。』 笑

私とお父さんは大抵なんでもツーカーで通じる。
お母さんはいつも2テンポ、3テンポ、遅い。
家であれ病院であれ、これは変わらない。


15時過ぎに修理されたケータイをとりにDocomoへ行った。
ちょうど夕食の時間に戻ったけれど、ほとんど食べず、
買っていったグレープフルーツ味のクーリッシュは全部飲んだ。

ケータイのデータ復帰に3時間近く待たされて、急いでいたので
何も買わないで帰ろうか迷ったけれど、買ってきてよかったと思った。
お父さんの食べたいものは、その日、その時にならないと分からない。
リクエストの応じて買って行っても、食べないことの方が多いくらいだった。

それでもよかった。食べてくれたらラッキー、というつもりで買っていた。
どうせ食べないかなーと思って行って、後から“今日はあったら食べたかも”
と思うより、いっぱい買って行って何も食べなくても、
そのほうがよっぽど気が済んだから。

夕方カズが来て足をそっと触ったら、気持ちいい、とお父さんは言った。
男のカズが、何をするにも一番丁寧で、慎重だった。

19時過ぎ、お父さんがウトウトしてきたので帰った。

明日から抗がん剤がスタートする。
『ガンって強そうだな』 お父さんは言った。

もう、抗がん剤やらずに帰りたい、とカズに言ったこともあたそうだ。

9月25日(火)     抗がん剤開始

お母さんは朝食の8時前に病院へ。
整形外科の先生が来たけどお父さんは寝ていたので話せず。

日中、昨日来るはずだった介護の人が様子を見に来た。
途中、お母さんがいない間にまた先生が来て、“なんでいないんだ”と
お父さん怒る。

血液検査をして、抗がん剤開始。
そのため今日のお風呂はパス。

18時、病院に着くと、点滴2本目の途中だった。
明日の午前中までかけて3本やる。これを2回やって二週間空ける。
あいだの二週間で家に帰る。そして二回戦は通院でやる。
そういう話になっていた。

今のところ、特に副作用はでていないようだった。
ただ、時間の感覚がおかしく、
『これから仕事行くのか?』 と、夕方なのに2回くらい聞かれた。

夕食もほぼ食べず、溶けたICE BOXを飲んだ。

昨晩から眠剤をやめたせいか、今日は少ししかっりしている。


『医者が来たら聞いてやるんだ。ぼくはあと何ヶ月生きれますか?』
答えてみろ、という口調で、お父さんは言った。



わたしには、言葉が見つからなかった。

自分にそう聞かれているようにも思えた。

わざと、私にそう言ったようにも感じた。


やっと一回戦が始まった。これ頑張って早く帰ろう。
みんなでくり返し言っていた。
お父さんは、“どうやって戦うんだ”
と、少しやさぐれモードだった。


ほんとだよね。 “戦い” と言ったって、チューブに繋がれて、
寝ていることしかできないのに。

何をどう、頑張れって言うんだよね。


いとこの話から、お父さんは急におしゃべりを始めた。
大阪での幼少時代。
私のおじいちゃん、つまりお父さんのお父さんはお医者さんだったので、
お父さんは立派な長屋に住んでいた。
近所に住んでたいとこ達。

『ぼくは長屋のプリンス』

9月26日(水)     副作用で元気?

朝一、お父さんから電話が来て、お母さんは早く病院へ行った。
お父さんはとても元気で、ご飯も食べようとする、
プレーンカステラ頼む。とお母さんからメールが来たのでカステラを買って
18時前に病院へ着いた。

顔もすっきりしていて、すっかり眠剤も覚めた様子だった。
16時頃、車椅子に乗ってナースステーションまで行った話をして、
『クロックス履いたぞー!』 と言った。

嬉しかった。


夕食は汁物全部、焼きナス1口と青菜を少し食べた。
ご飯はすすまないので今日からご飯の代わりにフルーツを頼んでいて、
キウイも完食した。

私がロンドンに行った時の話をしたら、
『イギリスの病院食ってどんなんだ?』 と言って笑った。

DVDも、ここにセットしろ、とか指示を出して、見る気マンマンだった。
カズが来るとリハビリもやる気マンマンで、車椅子用の車を買う話で盛り上がった。

9月27日(木)     MRI リタイヤ

通勤中の電車から、車関係の仕事をしている友達にウェルキャブ用
のパンフレットを送ってもらえるようにメールで頼んだ。

今日も、お父さんから朝一電話がきてお母さんは病院へ行った。
13時半からMRI検査があったけど、今のお父さんには体力的にも
あまりに長い時間で、2/3くらいでリタイアしてしまったそうだ。
  『あと何分ですよー』 とか言ってくれればいいのに。
と言って、すっかり疲れてしまったようだ。

18時前に病院へ行った時もお父さんは寝ていて、
夕食もあまり食べず、クーリッシュだけ飲んだ。

お父さんは、
『デパチカでも行ってうまいもんでも買ってこい。まったくおまえは何にも知らないんだから!』
とお母さんに言った。

デパチカの高いお惣菜なんて、まったく知らなければ興味もない
お母さんは、 “そんなこと言われてもねぇ。。” と困っていた。

今日はカズもいなく、お父さんもお疲れであまり機嫌もよくないので早めに帰った。

家に帰るとランチジャーが買ってあった。
お母さんは、家から何か暖かいものを持っていこうとしていた。

9月28日(金)     痛い、眠れない

昨日、おととい、とお父さんに朝一電話で呼ばれたので、
お母さんは朝食に間に合う8時をめがけて病院へ行くことにした。

それまではだいたい10時が目安で、朝食は看護士さんにお任せしていた。
抗がん剤が始まって、お父さんはご飯を食べようとするようになった。
口では言わないけれど、第一回戦を戦うために体力を付けようと
お父さんが頑張っているのを、私達は感じていた。


朝食後、お母さんは家に戻ったけれど、病院に鍵を忘れて、
しかたなくそのままデパチカへ行って、ポテトサラダと豚ひれ黒酢あんかけと
カステラを買って病院へ戻った。
お父さんはお昼にポテサラを少しだけ食べた。


私が18時前に行った時も寝ていて、時々起きては“イテテテッ”と言った。
私が行くと、 “24” を見ると言うので、急いでビデオ屋へ行って
DVDを3本借りて病院へ戻った。

夕食は味噌汁を少しだけ飲んだだけみたいだったけど、
DVDをつけてすぐ吐きそうになった。 でも、出るものがなかった。

カズは足首だけ軽くリハビリ運動してから、車を停めてるデニーズにコーヒーを飲みに行った。

私とお母さんが帰る頃は、お父さんはDVDを見ながら寝ていた。
たぶん、内容なんてどうでもよかったんだとと思う。
お父さんは元々TVをつけっ放しで寝る人だったから。


夕食は家の裏のお蕎麦やさんに行った。
お母さんはメガネを忘れて、店員さんが慌てて追いかけて来た。

お父さんが入院中に、まったく同じことが少なくとも3回はあったと思う。



お父さんは昨日から痛みが強くて眠れず、
ほんとかどうか分からないけど、昨晩は眠剤を4回打たれたと言っていた。
それでもリハビリをやって余計疲れ、痛み止めをして今日は昼間一日寝ているようだった。

いつもは消灯時間の21時に眠剤が来るらしいけど、3時間位で覚めちゃうようで、
けっきょく一番寝たい時間に目が覚めてしまう。

じゃあ寝たい時にナースコールしてくれたら持っていきますよ、と言われるらしいけど
知らぬ間に打ってくれよ。 いつ寝たいかなんてぼくに聞くな。 とお父さんは言う。

看護士にとっては21時に眠って、おとなしくしてくれるのが優秀患者。
知らぬ間に寝たいというのは患者のワガママ。

でもそういうひと、たくさんいるんじゃないかな。

9月29日(土)     共感

18時半に病院に着くと、カズがもう着いていた。
今日は訳あってGUCCIのファミリーセールに行っていて、
少し遅くなってしまった。

今日も食べないで寝てばかりだとお母さんに聞いていたけど、
夕食もほぼ食べず、眠そうだった。
今日はクーリッシュも食べなかった。

カズはリハビリ後、一足先にデニーズへ行った。
DVDをセットしたけれど、今日も帰る頃にはほぼ寝ていた。

仕事関係でいただいたので、せっかくだからと行ってきたGUCCI。
チケットをくれた人は、昔お父さんのお店の近くに住んでいたと聞いた。
その話をしたら、
『そいつは絶対うちの店来たことあるよ、何年前だ?今いくつだ?』
と、顔が浮かんでるかのようにお父さんは話した。


昨日、仕事関係でちょっとした用事があったので、
久々に前職の先輩にメールをした。
そしたら先輩も、自宅でお母さんを介護してる、とのことだった。

実は少し前から、連絡しようかしばらく迷っていた。
お父さんが入院してからというもの、誰かと関わるのが億劫になっていた。
誰かと話すのも、笑うのも、私の心にそんな余裕は残っていなかった。

でも、連絡してみてよかった。
息抜きも必要、とその人も言った。
私もそう思う。でも、私は気晴らしにどこかへ行ったりするよりも、
お父さんの傍にいる時が、一番ホッとした。
動けないお父さんを見るのは胸が痛いけど、
目の前で生きているお父さんを見ている時が、一番安心できる時だった。

でも、同じ思いを共有できる人とならば、会って話したいと思った。

9月30日(日)     足が悪いだけじゃないということ

カステラと一緒に、ランチジャーにおじやを入れて、8時前に病院へ。
『おじや、いいね〜』
  そう言ったけど、いざ見たら食べず、
味噌汁を少しとお茶を飲んだ。

さらにコーヒーを飲んで、 『ねーさんは?』 とお父さんは言った。
『ねぇさん?こっちにはいないじゃん。』 曖昧に答えた。
『そっかこっちにはいないのか。ダメだボーッとしてるな。』
自分でも、幻想と現実の狭間にいると感じてる風だった。

昨日も、お母さんに 『ここは横浜の病院か?』 と聞いたらしい。
昨日は熱海にいるような感じだったようだ。
おばあちゃんのいた病院と混同していたのだろうか。。

どうやら昨日も眠れなかったようで、夜中の3時に車椅子に乗せてもらい、
1階まで行ったそうだ。さらに夜中にヒゲも剃ってもらったらしく、
確かにさっぱりしていた。

3時に車椅子に乗ったなんで、ホントー?!と思って
こっそり看護士さんに聞いてみらたら、ほんとの話だった。


当直だった主治医の先生が回診に来た。
『焦る気持ちは分かるけどなー。一緒にがんばりましょう。』
そして、“夜寝れなくなるから昼間は起きてるように” と言って去って行った。

お父さんだって、別に昼間に寝たくて寝てるわけじゃない。
コントロールできるんだったらとっくにしてるに決まってる。


肝心な連絡はちっとも行き渡らないくせに、夜中に騒いで
看護士が困ったり、手をわずらわせるようなことがあると、
次の日そういう連絡だけはきっちりみんなに行き渡っている。



13時頃お母さんがきたので、入れ替えでお昼を食べに出た。
ちょっと奮発してお気に入りのパスタやさんでランチをした。


病院に戻ってお父さんは14時からベッドに寝たまま頭を洗ってもらった。

15時半に車椅子に乗るので、間に合えばカズが介助デビュー
しようと思ったけどちょっと間に合わず、
でもエレベーターに乗る時にバッタリ会ったので4人で1階まで降りた。
1階でエレベーターが開いたとたん、すーっと寒い空気がきた。
お父さんも嫌な感じがしたみたいで、結局すぐに部屋に戻った。


私はお父さんが車椅子に乗るところを初めて見た。
足どころか、腰から下がまったく動かない、体重70キロ近いお父さん
を車椅子に乗せるのは、想像した以上に大がかりなものだった。

私と変わらないような、ごく普通の、若い看護士さん三人がかり。
一人が主軸になって、お父さんはその人の首に食らいつく。
あとの二人はズボンのウエスト部分を持って落ちないように支え、
主軸の人が片足を軸にして回転し、車椅子に座らせる。
お父さんに繋がった点滴のチューブが絡まないように気をつけながら。

無事に移動しても、大体の場合座った位置が浅い。
お父さんはそこから自力で深く座り直すこともできない。
車椅子と言っても、足だけが悪い人とはまったく違う、ということを
私は思い知らされた。

車椅子で病室にみんなで戻ってきてから、
お母さんとカズは車で買い物に行った。
二人は17時半頃戻って来て、私は交代で家に帰って休んだ。

お父さんは夕食を食べず、カズがリハビリをして、二人は19時頃に
うちへ帰ってきた。
今日の帰りがけは、お父さんはまだ寝ていなかったようだ。



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